かせきさいだぁ
作詞家/ラッパー/ヒネモシスト/漫画家
誰にも頼まれずに執筆を続ける脱力系4コマ漫画「ハグトン」。
ハグトンの好物はカフェラテ(最近はソイラテ)だそう。

ロックンロール文庫 ゴボウくんのたしかにニガイブラックコーヒー伝説

2007.10.16
vol.3「黄色い家」

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 村井家が新築の家に引っ越したのはぼくが高校二年生のときだ。それまで住んでいた家では珈琲を飲んだ記憶があまりないが、新築の家では母ちゃんがよく珈琲をいれていた記憶がある。


 それまで村井家は山形市は南四番町にある建売りで買った平屋のちっちゃい家に住んでいた。


 小学生のころ、クリスマスを過ぎると必ず庭には兄貴が作ってくれた真っ白い雪の滑り台があったが、小学生のぼくでも滑り台のてっぺんから家の屋根まで容易に移り渡ることが出来るくらい背の低いちっちゃい家だった。


 体育館の裏で友達と喧嘩をしたときも、川に捨てられた猫を拾って帰ったときも、初恋の川添さんと映画館へ『ミクロキッズ』を観に行ったときも、祖母のお葬式の後も、初めてタバコを吸ったときも、いつも帰ってくるのはこのちっちゃい家だった。ぼくは17年間この家で「行ってきます」と「ただいま」を繰り返した。


 何をするにも家族一緒だった。夕飯は必ず全員揃って食べたし、毎週日曜の午前10時からは真ん中の兄貴が買ってきたケーキを食べながら『なるほど!ザ・ワールド』をみんなで見た。イベントも一緒。花見、七夕、月見、正月の餅つき、かまくら作り、年末の大掃除……。
 ちっちゃい家で家族五人賑やかに暮らした。


 初めて家族に言えないことをしたのもこの家だった。


 1989年の春。


 南栄町にあるパチンコ・エースの駐車場に貼られたポスター。日差しの柔らかい春の午後に見た、強い日差しに照らされた南国のビーチに横たわる金髪の女性の水着姿。
 そのポスターが何の広告のためのポスターだったかまるで覚えていない。
 ぼくは、金髪の女性の丸みを帯びたおっぱいに夢中だった。横たわった女性の陽に焼けた体から今にもこぼれ落ちそうなおっぱいのなんとも言い難いたるみ具合とヴォリーム感。汗で微かに濡れたムッチリ張りのある表面を直射日光が照らし、キッラキラに輝くその薄い薄い皮の中にはまるで甘いカスタードクリームがたっぷり入っているかのようだ。その柔らかさと危うさを秘めたおっぱいがとにかく美しかった。
 そんなおっぱいを持った女性が、ぼくの卑猥な思いを見透かしたような悲しげな目つきでこちらを見つめる。
 ぼくは真夜中の電信柱みたいにその場所で固まったまま、じっとそのポスターを眺めていた。


 それからというもの、ぼくは数日おきに電動マッサージ器を股関にあてがった。鏡台のある部屋で横になり畳の地平線をぼっーと眺めながら、朝早く押し入れの中で息を殺しながら、夏の午後に蚊取り線香の臭いが残る神棚のある部屋で、冬はこたつの中に隠れ……。ぼくは親や兄貴の目を盗んでは恐る恐るマッサージ器を股間にあてがった。
 そのとき、性に関しては全く無知だったが、一定の業を終えると漠然とした罪悪感に苛まれた。
 あのポスターの聖母マリア様がぼくを目覚めさせ、ぼくを苦しめた。
 18年経った今でも業を終えると罪悪感に苛まれるが、今思えばそのときがはじまりだった。



 その年の冬休み、最後の日曜日、おばさんと映画館へ向かう車の中で、元号が昭和から平成へ改元したことを知った。ぼくは車の窓から、空からもっさりもっさりと舞い降りてくる雪を眺めながらラジオを聴いた。


 この年の冬は例年になく雪が多かったため、兄弟三人でつくったかまくらはこれまでになく大きな、立派なものが出来た。


 その冬のあと、長男が初めてコンパクトディスク(CD)を買ってきた。同時にレコードプレイヤーは棚の奥の方へしまわれた。
 我が家に初めて導入されたCDプレイヤーから流れるマイケル・ジャクソンの歌に兄弟三人歓喜の声をあげた。


 同じ年、埼玉で連続幼女誘拐殺人事件があり、犯人の自室が公開された。
 壁を覆い尽くすほどのたくさんのビデオと書物。その数にびっくりしたのを覚えている。
 警察はそれを押収したが、その中のアニメのほとんどはうちにも、誰の家にもあるものだった。それまでテレビのニュースで流れる事件は遠い国の話だったが、そのとき初めてニュースから恐怖を感じたのを覚えている。無口で目立たない、無気力で感情を表現出来ない人はどこか怖いと見られるようになり、その傾向があった真ん中の兄貴は早速家の中では「犯罪者になるから外で遊んで来い!!」と母ちゃんに言われていた。



 ぼくが小学校を卒業して中学生になると、一番上の兄貴は大学で家を出た。


 中学になって最初の誕生日、ぼくは川添さんにCHAGE and ASKAの『SAY YES』のオルゴールをもらった。
 当時のぼくの日記には、「川添さんからオルゴールをもらった。川添さやか→(好きな人)」と書いてある。
 つきあう、とか、自分のものにしたいなんて観念はなかった。好きな人に誕生日プレゼントをもらえたことが、ただただ嬉しかった。その夜、ぼくは真ん中の兄貴と二人で作ったかまくらの中にオルゴールを持っていった。外は真っ暗で、空には月が出ていた。月の光に照らされた庭に積もった雪はうっすらと銀色に輝く。雪は、すべてを優しく覆い隠し、音すらも吸い取って静寂の世界を作り出していた。


 オルゴールを鳴らす。


 メロディーが雪の積もった路地裏の隅々に響きわたる。


 それから世界中にこの小さくて繊細な音色が響いていく。
 目を閉じてじっとその音色を聴いた。


 きっと川添さんも自分の部屋から顔を出して聴いているに違いないんだ…。



 一年後、真ん中の兄貴も大学で家をでた。そして親父の仕事も忙しくなり、それまで賑やかに暮らしていた家族のちっちゃい家が、徐々にさびしいちっちゃい家になっていった。五人全員が揃って夕飯を食べることがなくなり、母ちゃんと二人で夕飯を食べることが普通になった。



 そんな時期に村井家は南四番町から1キロ離れた南栄町へ引っ越すことになった。これまでよりもふたまわりも大きな家。ダイニングキッチンも、洋室もあるし、トイレはウォシュレットだ。それにぼくの部屋もあった。
 それまで兄弟三人一緒の部屋だったのが、ぼくだけの部屋が出来る。兄弟で共有しなくていい、ぼくだけの世界。これは凄いことだった。


 新しい家の完成が近づくと、母ちゃんと下見に行く回数も増えた。
 ここに本棚を置いて、テレビはここで、ベッドはそこで…。布団をたたんで押し入れにしまう生活とはもうサヨナラだ。自分だけの机、自分だけの本棚、自分だけのテレビ。ぼくの頭の中は新しい自分だけの部屋のことでいっぱいだ。


 引っ越しの数日前、部活から帰ると家の倉庫に入ってるはずの玩具がごっそりなくなっていることに気付いた。


 聖闘士星矢のフィギュア、トランスフォーマーやマクロス、ダンクーガの超合金、ガンプラ、ミニ四駆もキン消しもキン肉コロシアムもビックリマンシールもガムラツイストも……。
 そのどれもが小学生の頃ぼくが熱狂的に集めたもので、どれもがぼくの宝物だった。……のはずなのに、新しい家への引っ越しを数日後に迎えた今、それらは過去の宝物となり、ぼくの宝物にたいする執着心はなくなっていた。母ちゃんに聞くと、いつまでも整理しないぼくを見かねてしょうがないからかわりに片付けてくれたのだと言う。ゴミ捨て場にはさっき捨ててきたばかりらしい。なのにぼくは宝物を勝手に捨てた母親を責めるばかりか、ゴミ捨て場へ行って宝物を取り返しに行こうともしなかった。


 そうして黄色い壁の真新しい新築の家のぼくの部屋には、小学生の頃のぼくの宝物がない代わりに、マニアックな本を読み、洒落た家具とレコードに囲まれたDJの自室を公開した写真が掲載されたファッション雑誌が置いてあった。
 そのDJが紹介するものや自室にあるものはぼくの生活に全く馴染みのないもので、だからこそぼくはそういうレコード愛好家や読書愛好家に憧れを持った。


 家族の時間よりも自分の時間がいい。友達とうまくいかなくても自分の部屋があればいい。


 家族から離れたい…、友達から離れたい…、山形から離れたい…、いつの間にかぼくはそう思うようになった。



 黄色い壁の真新しい新築の家のリビングには家族が揃うことのない大きなダイニングテーブルがあった。


 ぼくは母との夕食後すぐに自分の部屋に閉じこもる。
 ぼくは窓をそっと開けてタバコを吸った。
 ぼくは夜中に、タンスの奥にしまってある親父の3つボタンのスーツを着た。
 ぼくはそれを着て部屋の窓から抜け出し、バー「ルイジアナハリケーン」で飲めない酒を飲んだ。
 ぼくはまたも夜中に窓から抜け出し、窃盗で警察に捕まった。





 黄色い壁の真新しい新築の家で暮らすようになってから、母ちゃんは食後や日曜日になると必ず珈琲をいれるようになった。どっちかの兄貴が帰ってきたときも珈琲をいれた。ぼくは食後すぐに部屋へは行かず、母ちゃんのいれる珈琲を飲むはめになった。ぼくは苦いものが苦手だったので、ミルクと砂糖をたっぷりと入れた。それがなかなか美味しかったが、それを見て母ちゃんは「ガキんちょだなぁ」と言った。
 …「うるせえず」。
 珈琲を飲みながらほんの少しのなんでもない会話をするようになった。


 そうして村井家では毎日珈琲を飲む習慣がついた。



 黄色い壁の新築の家で飲む珈琲は会話がなくなったぼくたち家族をギリギリのところで繋ぐための魔法の飲み物だったのだ。


 今でもぼくが実家に帰るとお茶より先に母ちゃんはまず珈琲を一杯いれてくれる。
 そしてブラックで飲むぼくを見て「生意気に…」と言うのだ。