かせきさいだぁ
作詞家/ラッパー/ヒネモシスト/漫画家
誰にも頼まれずに執筆を続ける脱力系4コマ漫画「ハグトン」。
ハグトンの好物はカフェラテ(最近はソイラテ)だそう。

ロックンロール文庫 ゴボウくんのたしかにニガイブラックコーヒー伝説

2008.11.25
vol.10「アルコールランプの火はフラスコに入ったコーヒーを温める」

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 「あんた生ぎでだんだが!? 全然連絡もよごさねで……。最近O157って流行ってるがら気ぃつけろよ。肉食うどきはしっかり火ぃ通したものば食えな。寮のご飯、ちゃんと食っでだんだが!?」


 東京で暮らす息子を心配して寮に電話をかけてくる母。
 三日に一度電話をかけないと、ぼくは音信不通の不良息子と見なされる。
 ぼくは「わがってっから。ちゃんと3食食べでっから。心配すんな」と言ったが、実際は1日2食か1食。寮で出される朝夕の食事をとることは寮に入った半年前に比べると極端に減った。
 特に朝食時の食堂にはめったに行かなくなった。
 週に一度のライヴに行けば、必ず門限は過ぎるので、ファミレスで時間を潰して朝方寮に帰る。寮長に見つからないように下の階のヒロシくんの部屋から入れてもらっても、ライヴの興奮覚めやらぬまま朝まで喋りたおす。部屋でひとりでいても、テレビを垂れ流したままベッドに横になって悶々としているうちに、いつの間にか朝になっている。そうして明るくなってから眠るのが習慣になっていたので、朝食の時間に間に合わないことが多かった。たまに間に合っても、学校も出身も違う者どおしが朝から顔を合わせて朝食をとる行為は、ぼくにとっては至難の技だ。朝食も夕食も、ヒロシくんや隣の部屋のシンちゃんと一緒じゃない日は、食堂が混み合う時間を避けて遅い時間帯に食べにもいったが、食堂の隅っこのほうでひとりですする冷めきった味噌汁はなんとも味気ない。
 しかし、そんな味気ない食事でも、ぼくは一向に平気だった。たとえ寮での朝夕の食事をぬかしても体は生き生きとしていた。
 ぼくには熱々の旨い飯を提供してくれる喫茶シャテニエがついている。ドリアやスパゲッティ、しょうが焼き定食まであるシャテニエの一食のまかないが、一日のぼくの体を支えた。



 「村井くん、飯にしようか。今日はしょうが焼き!? それともドリア!?」
 「(よっ!! 待ってました!!)えっと…、じゃあ…、しょうが焼きでお願いしまっす!!」


 夕方7時のシャテニエには、コーヒーの香りをおさえ、しょうが焼きの香ばしい香りが充満していた。
 佐藤さんの作るしょうが焼きは絶品の味だった。
 すりおろしたしょうがと豚肉を絡め強火でしっかり焼き、山崎店長が仕込んだ秘伝のタレを入れる。ジュルジュル音をたててしょうがとタレが絡み合い、最後に玉ねぎを加えさらに炒める。
 佐藤さんはその一連の流れを手際よくやってのけた。あらかじめ材料を二人前用意し、フライパンに油を注いで、入店してくるお客さんがいないか少しの間時間を置く。お客さんが来ないことを確認すると、火を点けて一気に作り上げた。もたもた作ってお客さんが入店してきたら、途中で火を止められたしょうが焼きは味が落ちるからだ。あっという間にしょうが焼きを作る佐藤さんを横目で見ながらぼくは何度も感心していた。


 楕円形の真っ白いディナープレートに熱々のしょうが焼きが盛り付けられる。
 店内に広がるしょうが焼きの香り。ぼくは唾を飲みこんだ。
 佐藤さんは、しょうが焼きが盛り付けられたプレートに、キャベツのみじん切りとトマトと薄く切ったきゅうりを添え、キャベツの上から山崎店長特性のドレッシングをかけた。そして熱々のコンソメスープまでつけて、お客さんに出すランチそのままをまかないとして僕に食べさせてくれた。
 店にいるお客さんは食欲をそそられ、会話を止めて佐藤さんから差し出されるしょうが焼きに視線を向ける。


 「しょうが焼きって夜もやってるんですか……」


 いつもランボーの詩集を読み、ドリアセットを注文するお客さんにそう聞かれて、まかないなんです、とぼくは申し訳なさそうに小声で答えた。
 しょうが焼きはランチのみのメニューだからそう聞かれても仕方ない。仕方ないが、佐藤さんが休みの日に別の人がしょうが焼きを作っても何も聞かれないし、視線も感じないのだ。佐藤さんのしょうが焼きはまかないらしさがまるでないが、他の人はしょうが焼きをまかないらしく作り、まかないらしく無造作に盛り付けるからだろう。
 佐藤さんのまかないは、お客様にお出しするそのままの盛り付けでテーブルに置かれる。
 ぼくは店の一番奥、厨房脇の<予約席>の札が置かれたテーブルで、その豪華すぎるまかないを、常連客に背中を向けて視線をさえぎりながら、目に涙をためて頬張った。


 んー旨い!!
 こんなのをみんなが食べたら戦争なんてなくなってしまうだろう、というくらい旨い。まかないといえど、一切妥協せずに作る佐藤さんのしょうが焼きは、ぼくの心を豊かにして、幸福感で満たしてくれた。
 しかし、さらにだ。
 ご馳走さまでした!!
 と食器を下げるぼくに、なんとアイスコーヒーが差し出されるのだ!!
 時には、余っちゃったから、と言ってぼくの大好きな生クリームまで添えてくれる。


 え!?これじゃあ、アイスウインナーコーヒーじゃないすかっ(泣)!!
 やりすぎだろ、佐藤さん!!お客さんが見てるって!!もうっ!!



 そんなわけで、ぼくの貴重な食事はシャテニエのまかないのおかげで色鮮やかになり、ぼくはシャテニエに行くのが楽しみでしょうがなかった。
 佐藤さんはコーヒーはもちろん、料理も上手い。まかないひとつとっても手を抜かない。接客だってそうだ。常連さんとはどんな話題でも対等に話せる。よく人の話を聞き、いろんなところにアンテナをはっているからだ。努力している人だからだ。それなのに、これ見よがしに知識をひけらかすのではなく、常連さんとの話題のひとつとしてさりげなくストックし、必要なときだけ必要な知識を引き出しから引っ張り出してくる。
 丁寧な仕事をし、店長やぼくを含めたウェイター、お客さんからの信頼も厚い。必要なときにしか話さない。必要なときにしか叱らない。必要なときにしか笑わない。それでいて、情に厚く、人の幸せが自分の幸せといったようなことを態度で表す。
 正に、この人こそ、ぼくの模範とすべき男だとしみじみ思った。男はこうあるべきだ、とぼくに教えてくれるひとが目の前に現れたのだ。


 ぼくは佐藤さんのことが知りたくなった。好きな音楽、映画、小説、漫画……。東京に出てきた経緯、付き合っている女性はいるのか。シャテニエでの仕事以外はどうしてるのか。生活臭がしない人だったからなおさら興味深い。そこで、帰り際など、タイミングを見計らって何度か仕事以外のことを聞いてはみたが、口を濁されるだけで、そう易々とは聞き出せなかった。
 しかし、シャテニエのこととなるとなんでもぼくに教えてくれる。コーヒー豆についてはもちろんのこと、店が混み合う時間帯、暇になる時間帯、常連客のそれぞれのお気に入りの席や、カウンターに座る常連客が注文する「いつもの」コーヒー、それに常連客の好みのコーヒーの濃さなど、ぼくのようなオーダーをとるだけのウェイターが知らなくていい知識までも、余すことなく教えてくれた。さらに、ぼくが佐藤さんの嫌いな皿洗いを手伝っていたこともあって、山崎店長に内緒でサイフォン式コーヒーの煎れ方を教えてあげる、とまで言ってくれた。


 佐藤さんのおかげでシャテニエのことはだいたい知った気になっていたが、ひとつだけわからないことがあった。



 この喫茶店はコーヒーの出前もやっている。〜杉並区内であればどこでも30分以内に熱々の煎れたてコーヒーをお届け致します〜ではなく、同じビルの4階にある歯科医院や、1階の不動産屋などの、シャテニエと古くから付き合いのある近所の限られたところに出前をしていた。
 レジ脇にあるピンクのダイヤル式電話がリンリン金切り声で鳴ると、店内中のお客さんが目をまんまるくさせて一斉に反応する。
 「〇〇不動産だけど、ブレンド2つね」
 電話口からのオーダーを受け、早速コーヒーカップに熱々のコーヒーを注ぐ。そしてラップで蓋をして配達する。
 電話が鳴れば、ピンクの電話の耳障りな鳴き声が、落ち着いた店内でコーヒーを飲み、穏やかな時間を過ごすお客さんを不快にさせる。
 だからウェイターは電話が鳴った瞬間に受話器をとるよう心掛ける。なるべく早くとる。
 だがやっぱりリンリン鳴らせてしまう。不動産屋のおじさんも歯科医院の先生も、わざわざ店に来て、今から電話するから、なんて言うわけがない。いつ電話が鳴るかわからない。当然のことだ。
 だが、佐藤さんは、不動産屋と歯科医院以外のぼくの知らないお店から電話がきたときに限り、全くありえないタイミングで受話器をとるのだ。


 バイトを始めて1ヶ月程経った頃だろうか、ある日、佐藤さんが唐突に厨房を出て、ピンクの電話の前まで歩き、そこで立ち止まった。
 何をするでもなく電話の前でただ立っている佐藤さん。数分が経ち、静まり返った店内に、一瞬だけ例の耳障りな電話が鳴った。正確に言うと鳴った気がした。そう思って電話の方を見ると、佐藤さんが既に受話器を片手に出前のオーダーをとっていた。そして電話を切ると、3人分のブレンドコーヒーをトレイに乗せ、自ら配達に出ていった。店を出るときの佐藤さんの表情は、これまで見たことがないくらいに強張っていて、緊張感がひしひしと伝わってきた。
 それから数分後、前線から無事に帰還した兵士のような安堵の表情で戻ってきた佐藤さんは、厨房に入るなりタバコを口にくわえ、深く煙を吸って吐き出した。ただ事じゃないと思い、どこから注文を受けたのか、恐る恐る聞いてみた。が、煙を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返すだけで、とうとう何も語ろうとはしなかった。


 わざわざ厨房から出てきて、電話が鳴ったと同時に受話器をとったということは、佐藤さんは電話が鳴る時間を知っていたということになる。配達はぼくの仕事なのに、なぜ佐藤さんが行くのか、どこから注文を受けたのか、携帯も持っていない佐藤さんが、どうして正確に店の電話が鳴る時間を知っていたのか。そして、シャテニエのことならなんでも教えてくれたはずの佐藤さんが、なぜぼくに隠しごとをするんだろう……。



 そうして1ヶ月が経ち、そんな疑問も忘れた頃に、毎月月末になると団体でお客様が来るのでくれぐれも落ち着いて対応するように、というようなことを佐藤さんから言われた。


 「だいじょぶっすよー、もう慣れましたよー」
 「落ち着いて対応してね」
 「だいじょぶですって」
 「オーダーを取るときは、この伝票じゃなく、このノートに書いて下さい。お客様が帰られた後に伝票に書き直せばいいから」
 「最初から伝票でだいじょぶですよー。あとからテーブルごとの伝票に振り分けるの面倒じゃないすかー。だいじょぶです、だいじょぶです」
 「伝票はテーブルごとじゃなくていいから。まとめて書いてだいじょうぶだから。とにかくオーダーとるときはノートに書いて。言うこときいて、村井くん」

 佐藤さんの口調が徐々に強くなっていく。表情が少し強張っているようにも見えた。その表情を見て1ヶ月前の佐藤さんを思い出した。ただ事じゃない何かが起ころうとしている、そんな気がした。


 「どのくらいの人数のお客様がいらっしゃるんですか……」
 「カウンター以外全部。テーブル全部埋まる。とにかくオーダーだけは絶対に間違えないでね。冷静に」


 それだけの人数にぼくが対応しきれるか、という焦りもあったが、それ以上に佐藤さんの切迫した強い口調に、これまでになかった不安を覚えた。


 「それって、いつなんですか!? いつ来るんですか!?」
 「一昨日も昨日も来てないから今日だね、間違いなく」


 そう言って佐藤さんは、厨房のステンレス台に並べられるだけのコーヒーカップをずらっと置いて熱湯を注ぎ、店にあるだけのサイフォンを使ってブレンドとアメリカンを煎れ、大量のアイスコーヒー用グラスに氷を入れた。ぼくは佐藤さんに指示された通り、大量のお冷やを用意し、団体のお客様がいつ来てもいいように万全の態勢を整えた。


 しばらく経っても佐藤さんの言う団体のお客様は来ない。時計は6時を回った。店内には常連客が4組と常連客以外のお客さんが1組。今日はいつもに比べて常連のお客さんが圧倒的に少ない。いつもは新聞全部がお客さんの手元にあるのに、今日は半分以上が、入り口通路の棚に行儀よく収まっている。
 ぼくはさっきまでの不安と焦りを忘れ、夕刊に載っているO157についての記事をなんとなく読んでいた。
 佐藤さんも、狭い厨房の中でイスを窓側の方へ持っていき、スポーツ新聞を両手いっぱいに広げている。広げてはいるが、顔は新聞と逆の方を向き、大窓から駅前の方を見つめていた。


 駅前の往来はいつものように人通りが絶えない。寒空の下、コートを羽織ったサラリーマンが家路につき、若者たちが駅に向かって足早に歩く。たくさんの人を乗せたバスがゆっくりと走り出し、オレンジ色の電車が、シャテニエの大窓を右からも左からも通り抜ける。その中心で、高円寺駅だけが変わらずにでんと腰を下ろしていた。
 相変わらずアルコールランプの火はフラスコに入ったコーヒーを温める。グラスに入った氷は溶け出して、バランスを崩した拍子にカランと綺麗な音を出し、グラスの底に水を溜めていた。まるで百年も昔から何も変わっていないかのような古びた店内に、ひっそりと流れる有線のクラシック。


 突然、窓際に座ってる常連のお客さんが席を立った。同時に佐藤さんも席を立って、広げたスポーツ新聞を素早くたたんだ。
 「きた」


 常連客は一斉に立ち上がり、レジで代金を支払い足早に店を出ていった。
 それまで石のようにじっと沈黙を保っていた常連客が突然暗示をかけられたように皆一斉にその場を去った。一瞬の出来事だった。店内には彼らの余韻だけが残っている。ついさっきまでぼくの目に映っていたシャテニエは均衡を崩し、ぼくの知らない別の喫茶店にいるかのような錯覚に陥った。ぼくはグラスやコーヒーカップを下げるのも忘れ、閑散とした店内を見つめて状況を把握しようとした。店内にはまだ常連客以外の1組のお客さんがいた。彼らもぼくと同じようにこの急に現れた異空間に馴染めず、戸惑っているように見えた。そんななか佐藤さんだけはきびきびと動き、あっけにとられたぼくに構ってられないと言わんばかりに、テーブルの上の食器を素早く、少し乱暴ぎみに下げ始めた。
 我にかえり、慌ててぼくも食器を下げる。


 なんだ……、まだ飲みかけじゃないか…。
 窓際のテーブルで、まだ半分も飲まれてないブレンドコーヒーをトレイにのせようとして、ぼくの手は固まった。
 真っ黒な外車で埋め尽くされた高円寺駅前の異様な光景が、突如としてぼくの目に飛び込んできたのだ。唖然とした。


 なんだこりゃ…!?


 そう呟いた瞬間、自動ドアの鈴が鳴った。入口の方を見ると、眉間にしわを寄せた目つきの鋭い体格のいいおじさんが立っていた。


 「いらっしゃいませ」


 佐藤さんが力の入った声を出す。顔が強張っている。
 目つきの鋭いおじさんは、レジの前まで来て店内をゆっくりと舐めるように見回すと、向きを変えてスタスタと急ぎ足で入口の方へ戻り、外に出ていった。佐藤さんは相変わらず強張った顔をして、ずらっと並べたコーヒーカップに次々と注文もされてないブレンドコーヒーを注ぎ始めた。
 そして今度はさっきよりも力の入った声で


「いらっしゃいませっ!!」


 と叫んだ。ぼくは体がびくっとして、一度そらした視線をまた佐藤さんに向けた。佐藤さんは真っ直ぐに入口の方を睨んでいる。佐藤さんの視線の先から、ただならぬ殺気を感じた。見ると、たくさんの体格のいい、目つきの恐ろしく鋭い黒服の方々が次から次へと店内に入ってきていた。
 ヤクザだとわかるまで時間はかからなかった。
 ぼくは気が動転し、席を案内するのも忘れ、その場に呆然と立ちすくんだ。厨房の佐藤さんに視線を向けるのがやっとで、そうしてるうちに店内はヤクザの方々で埋め尽くされ、シャテニエは極道一色に染まった。


 「村井くん、早くお冷やお持ちして!!」


 佐藤さんが叫ぶ。ぼくは慌てて各テーブルにお冷やとおしぼりを運んだ。


 「おーい、こっち灰皿ねーぞー」
 「すいませんっ」
 慌てて灰皿を運ぶ。


 「兄ちゃん、こっち水きてねーぞー」
 「すいませんっ」
 慌ててお冷やを運んだ。


 「ここホット4つな」
 「かしこまりましたっ」


 「佐藤さん!! 4ブレンドですっ」
 「何番テーブル!!!?」
 「えっと、えっと……、5番ですっ!!!!」


 オーダー、オーダー!!
 そうだ、早くオーダーをとらないと!! 早く、早く!!


 え!!!?


 会計!? お帰りですか!? いま!?


 一般のお客さんだ…。
 レジの前には青ざめた表情をしたお客さんが銅像のように固まって立っていた。


 いやいやでもでも、いまは無理、無理っす!! レジ打ってる場合じゃないんすっ!!!!


 ぼくの目がどんどんつり上がっていくのがわかる。血の気がひいていくのもわかる。脳が溶けていく。思考が停止し、視界までぼんやりしてきた。


 脱出したい……。自分もうだめです……。佐藤さんっ!!


 潤んだ目で佐藤さんを見ると、既に厨房を出てノート片手に各テーブルを回っている。そして一般のお客さんの会計も済ませると、足早に厨房に戻り、カップに注いだばかりのブレンドコーヒーをトレイに乗せては各テーブルに次々と運んだ。
 その後で、コーヒー以外のドリンクを丁寧かつこれ以上ないスピードで仕上げて運んだ。
 最後に、厨房のテーブルにずらっと並べた氷いっぱいのグラスにアイスコーヒーを注ぎ、

 「村井!! あとはすべてアイスコーヒーだから!! さあ、お持ちして!!」


 ショートしかけたぼくの足は、コンクリートで固められたみたいに一歩も動かない。佐藤さんの声は聞こえてはいるが、言葉が入ってこない。どうしたらいいのか…。どうしたらいいのかわからない。


 アイスコーヒーも佐藤さんがひとりで運び、一通りドリンクがいき渡った。全て佐藤さんがひとりでやり遂げた。ぼくは目の前の状況すら理解出来ていない。何をやっているんだろう。何も考えられない。店内を眺める。眺めるが目のやりばがない。天井に視線を逃がす。視界の下の方にわずかに映る脅威の群れ。こんな光景はスクリーンの中でしか見たことがない。天井に視線を逃がそうとすればするほど、視界の下にわずかに映る脅威がよけい大きくなってぼくに迫る。この威圧感に耐えきれずに声を出そうものなら、そのときは最後だ。
 この緊張を悟られてはいけない。
 平常心、平常心!!
 そう思うほどに緊張が高まり、おびただしい数のヤクザからのありもしない視線を感じ、自分で自分を追い込んでいく。
 このままじゃ仕事にならない。ガチガチになった重たい体を、ゆっくりと厨房の方に向ける。すると安堵の表情を浮かべた佐藤さんがぼくを見ていた。
 いつもの佐藤さんの無表情な、それでいて透明に澄んだ顔。目もあてられないくらい真っ青だったぼくの顔が、佐藤さんを見て少しだけ血の気を取り戻した。相変わらずアルコールランプの火はフラスコに入ったコーヒーを温める。


「村井くん、いつも通りでいいからね」


 佐藤さんが、氷の入ったグラスに水を入れてぼくに差し出した。ぼくは喉がからっからだった。喉が渇いていたことに水を出されて始めてわかった。
 くっきりと鮮明な現実がようやく戻ってきた。ぼくは水を一気に三杯も飲んだ。飲んだあとで深呼吸をして、客席に目をやる。水を飲んで気持ちが落ち着いたせいか、それまでの恐怖感が少し薄らいでいた。いつもやるように水を継ぎ足しに行こう。佐藤さんは、水を継ぎ足しに行くぼくに目で、こちらのテーブルから、と指示してくれた。
 指示通り、店の奥の入口から一番遠い席、厨房の隣にある、ぼくがいつもまかないを食べている予約席の方から順に回った。その席には組の幹部の方々が座っていた。他のテーブルに座っている人の神経が、そこに一点集中しているのがあからさまにわかる。
 少し震えた手でグラスに水を継ぎ足していく。
 全ての席を回ったあとで、自分が完全に平常心になったのがわかった。この空間に慣れたのかもしれない。ヤクザの方々の会話が自然と耳に入ってくる。
 お客さんの会話を盗み聞きするのはよくない。ましてや一番聞いてはいけないお客さんのような気がする。が、ぼくは思いきり聞き耳をたてて興味津々で盗み聞きした。
 密輸した武器を引き取る場所はどこなのだろうか、誰の暗殺計画なのだろうか……。
 店の一番奥、幹部席に近づく。が、物騒な話は一切なく、久々の再会を喜ぶ同志の会話だった。
 体調がどうだとか、この前どこどこで旨いものを食ったとか、最近なにか面白いことがあったかとか。
 笑い声。腹の底から笑っている声が聞こえた。


 追加のオーダーはぼくがとった。トマトジュース。ビール。バナナジュース。アイスコーヒー。ブレンド。


 「おい、これじゃない。トマトって頼んだだろうが。トマトくれ、トマト」


 一瞬店内に緊張が走った。
 トマトジュースを注文したのは幹部席に座っていた組長らしき人だった。


 「こちらがトマトジュースになりますが…」
 「違う、俺が頼んだのはトマトだよ。ジュースじゃない。トマトだよ、トマト。トマトくれ」
 メニューに<トマト>はもちろんないが、切らずにそのままくれ、という組長の言う通りに、冷えたトマトをそのまま皿に乗せて出した。組長は陽気な会話をしながら、無骨で真っ赤なトマトにむしゃぶりついた。手や口元に血の色をした汁が飛び散り、ジュルジュルいわせてむしゃぶりつく姿は見事で、なんて旨そうに食うんだと感心した。そして、トマトを食べ終わると、「爪楊枝くれ」と言って席を立ち、レジの前に立った。同時に店にいた黒服の男全員が皆一斉に席を立つ。レジの前に立った組長は財布からピン札を出して会計を済ませた。
「トマト旨かったなぁ。ご馳走さん」そう言って、代金とは別に5000円を置いてシャテニエを去っていった。



 その夜、佐藤さんに将棋を指そうと誘われた。
 閉店後の掃除を終え、表の看板の照明を消した後、ぼくと佐藤さんは、窓際の2番テーブルにマグネット式の将棋盤を広げ、向かい合って座った。


 ぼくは自分の非力さを悔やんだ。今日だけで何度佐藤さんに助けられただろうか。
 ぼくは……。
 ぼくは……、一歩も動けなかった。佐藤さんはひとりで大仕事をやってのけた。ぼくは、ただ佐藤さんの足を引っ張っただけ。情けない思いでいっぱいだった。


 佐藤さんは、無言のままマグネット式の将棋盤をテーブルに広げ、煙草を吸っている。一本吸い終わっても、まだ黙っていた。黙って駒を並べていた。
 怒っているのだろうか…。ぼくは言葉が見つからないままだった。


 「さ、やろっか。村井くん先手でいいよ」


 佐藤さんはそう言って立ち上がり、グラスにコーラを入れて持ってきてくれた。恐る恐る佐藤さんの顔を見た。その表情は仕事中のときとは打って変わり、大仕事をやり終えた晴れやかで達成感に満ちた表情をしていた。
 ぼくたちは誰もいないシャテニエで将棋を指した。
 店内には、いまだに有線のクラシックが流れている。ぼくと佐藤さんは、マグネット式の小さな薄っぺらい将棋盤を囲み、コーラをちびちび飲みながら駒を動かした。佐藤さんは、局面が自分に優位になる度にニヤニヤしながら、満足げにタバコに火をつけた。
 途中までいい勝負のように思えたが、結果はぼくの惨敗。
 将棋を指している間、ほとんど「んー」「あー」しか言わない佐藤さんだったが、対局を終えてから、1ヶ月前、ぼくに黙っていた例の出前先というのは、近くのビルの一室にあるヤクザの事務所だったことを話してくれた。その事務所はある組の高円寺支部で、普段は人の出入りが少ないが、月末に組長を迎える集会があり、次の日の夜10時前後、ようするにシャテニエに来た次の日の夜10時前後になると、決まって出前の電話がはいるのだそうだ。
佐藤さんは、入ったばかりのぼくを脅かしちゃいけないと思って黙っていた、と言った。
 その時ぼくは、その出前もぼくが行きます、とも、次に団体のお客さんが来たときは今日みたいなことがないよう頑張ります、とも言えずにいた。どうしてなんだろう……。ヤクザが恐いからじゃない。出来なかった自分を認めたくなかったのだ。どうして「今日は迷惑をかけてスイマセンでした」と謝れないのか……。自分があんなに小さい男だと思っていなかったのだ。


 結局ぼくは自分のことしか考えていなかった。佐藤さんに体ごともたれかかっているくせに、自分のことで手いっぱいといったような顔をして、ひとり感傷に浸っていた。


 夜の闇に煌めく高円寺駅の灯りが、駅前のまばらな人影を照らす。
 ぼくが帰り支度をしていると、佐藤さんが唐突に、「これからサイフォン式の煎れ方、教えてあげよっか!?」と言った。


 「…え!?」
 「教えて欲しいって言ってたじゃん、サイフォン。いまならゆっくり教えてあげられる。時間はたっぷりあるからね。」
 「まじすか!?」
 「まじまじ。しかし腹へったなー。今日まかない食べれなかったからねー。コーヒー作ったら頂いた5000円で旨い飯食べに行こうよ」


 ぼくは飛び上がって喜んだ。確かに夕飯を食べていなかったのでお腹がすいていたが、佐藤さんからの思わぬ誘い自体が嬉しかった。それに何よりコーヒーを作れることが嬉しかった。今日1日のいろんなことは全部、サイフォン式コーヒーの作り方を教えてもらうための前置きなんだ。そう思えるぐらいワクワクした。ぼくは自分の失態を忘れ、これから始まるコーヒー作りに胸をふくらませた。


 シャテニエの大窓を最終電車が横切る。
 ぼくは佐藤さんの後に続き厨房に入り、両手を洗って、言われた通りにサイフォンのセッティングをした。