ロックンロールニュース

Original Love 田島貴男 Interview 前編

 90年代の音楽シーンを作り上げてきた名盤復刻シリーズ「standard of 90's」を語る。再び登場するのは、オリジナル・ラヴの田島貴男である。91年のデビューから現在に至るまで、1作ごとに驚くべき革新を遂げてきたその創作の原点とも言える初期の作品の再リリースに、彼は何を思うのか? クールな理性と生々しい野性とがギリギリのところでせめぎあう、スリルと快楽にあふれたその音楽はどうやって生まれてきたのか? 今回はその「前編」として、再リリースされる6枚の作品の「自己解説」を試みてもらった。

対話_宮本英夫 撮影_ロックンロールニュース編集部



トータルなサウンドの完成度として、
一本筋が通ったなと思います。


田島貴男 写真1

——前回ここに登場してもらった山崎二郎さんによると、今回の再リリースは「マスタリングですごく良くなって、すごく低音がバシッと出て、(田島さんも)やってよかったね」、という話になったそうですね。

田島 最近はなくなってきましたけど、当時は洋楽と邦楽との間に音の質感の差があって、もちろん演奏力の問題でもあるんだけど、マスタリングの違いってあるんだなって今はわかるんですね。たとえば70年代のロックとか、ビートルズの時代のトータル・コンプレッサーのかけ方とか、やっぱり僕の好きな洋楽アルバムにはこだわりがあったんだなということが今になるとわかる。バーニー・グランドマンのスタジオに行った時に、ジョン・レノンの『ダブル・ファンタジー』とかをマスタリングしたグレッグ・カルビに会って、ジョンのメモを見せてもらったんですよ。そこにけっこう細かい指示が書いてあって、“もっとパンチのある音にしてほしい”とか“ベースをもっと出してくれ”とか。
 ジョン・レノンってマスタリングの音質にまでこだわるんだな、やっぱりプロデューサーなんだなっていうことがわかって、マスタリングまで立ち会わないとなって思った。やっぱりすごいエンジニアはテクニックが違うんでね。今回のリマスタリングは小鉄徹さんで、小鉄さんは山下達郎さんとかをずっとやってるし、最近はヒップホップとかの人もやってるみたいだけども。僕の作ってきた音楽というのは、デジタル的というよりもアナログ的なもので、よくよく考えると、当時から小鉄さんにマスタリングしてもらいたかったですね、その時に小鉄さんを知っていれば。そう思うところがあって、今回はミックスとマスタリングとを含めたトータルなサウンドの完成度として、一本筋が通ったなというふうに思いますね。アナログのおいしいところを形にできてるんじゃないかなと思います。

——あらためて、初期の6作品を聴き直してみてどうですか。

田島 ファースト、セカンド、サードぐらいまでは、恥ずかしくて聴くに堪えないという感じなんだけど、『風の歌を聴け』ぐらいからはそうでもなくて、今聴いてもいいなと思うんですよね。バァフアウトのインタビューでも言ってるんだけど、ファーストとセカンドぐらいまでは習作だと思ってます。 

standard of 90's logo
standard of 90's
今もなお、熱いリスペクトを集める90年代音楽シーンを作り上げてきた名盤復刻シリーズ『standard’s of 90’s』。第1弾、オリジナル・ラヴ、スパンク・ハッピーに続き、第2弾として登場するのが、TOKYO No.1 SOUL SET、スチャダラパー、Great3の3組。アーティスト公認、リマスタリング、当時のアナログを紙ジャケ化(一部除く)という07年リマスター決定版となっています。他詳細はstandard of 90'sまで。

自分が知らない間に、周りが盛り上がっちゃってるなぁ
という気がしてましたね。


田島貴男 写真2

——では1作ごとにコメントをいただきたいんですけども、まずは『LOVE!LOVE!&LOVE!』から。

田島 ファースト・アルバムというのは、どんなアーティストも言うらしいんだけど、あんまり納得いってないよね。何が何だかわかんないうちに終わっちゃったというか、自分が思い描いていたファースト・アルバムのイメージからはだいぶかけ離れたものでした…今だから言いますけど。当時はそういうことは言えなかったですけど(笑)。デビュー前のオリジナル・ラヴとはだいぶ違うムードのアルバムなんですね。バンド編成もほとんど代わっちゃって、背の高いメンバーが集まったという。その前は僕の友達でやってたんだけども。だからどうだということを言ってもしょうがないんだけど、自分の印象としてはそうでしたね。まず鍵盤を入れるアレンジというのが、当時の僕にはまったく発想がなかったんですよ。でも音圧がないから入れたいと思って入れたんだけど、そういうアレンジがヘタだなと。あとは、現場に歌のディレクションをするディレクターが一人もいなくて、メジャーで出しましたけど、状況としては完全にインディー盤みたいな感じでした。実際にディレクションをしたのは全部僕で、歌入れの時も誰もいない。エンジニアの人と二人だけ。鍵盤のアレンジの時には(キハラ)龍太郎さんがそばにいましたけど、基本的には僕一人で、ディレクターの方も新人だったので何もわからない。だから、どういう歌を歌っているんだか自分でわからない。エンジニア相手に歌ってるんで、わかんなくて、どうなのかな?っていう感じでしたね。現場では。

——楽曲的にはどうですか。

田島 曲はね、ベスト盤みたいなイメージなんです。それ以前までのインディーズの、すごい大雑把なベスト盤。それまで5年ぐらい活動してたんで、その中でやった曲のベスト盤。曲の選びも、みんなの投票制だったんですよ。僕の意見はほとんど通ってないんじゃないかな。みんな“この曲がいい。あの曲がいい。田島は黙ってろ”みたいな。そんな感じだった。そりゃないんじゃないか?ということはもちろん言いましたけど、わりとみんなの意見を通してる感じでしたね。みんな僕より年上の人たちで、バンドということで売り出そうというふうにしてたんで、ということはみんなの意見も入れようということになって、それ以前まで持っていたオリジナル・ラヴの個性的なカラーはだいぶなくなっていました。ファーストはそういう印象ですね。不完全で未完成なアルバムだなぁと。ただね、いろいろもてはやしてくれたんでね、新しい新しいって。自分が知らない間に、周りが盛り上がっちゃってるなぁという気がしてましたね。

LOVE! LOVE! & LOVE! - 91年リリース
『LOVE! LOVE! & LOVE!』
(91年リリース)

——次がセカンド『結晶〜SOUL LIBERATION』です。この作品で気に入っている部分は?

田島 ないよ、あんまり。

——そんな(苦笑)。

田島 ファーストとかセカンドは、あんまり気に入ってないな。今はね。でも『風の歌を聴け』は大好き。今聴いても“オレ、結構いけてるな”と思う。ハッハッハッハッ(笑)。『EYES』とか“接吻”ぐらいからはちょっといいのが出来て、今でも聴けるのものがあると思うけど。基本的に、リズムがしっかりしてからですね。

結晶 - 92年リリース
『結晶』
(92年リリース)

——セカンドの次に出たのは『SESSIONS』ですけど、これは?

田島 これはまた別。当時はリミックスが新しいという時代だったから、僕がというよりも当時のスタッフがそういう新しいことをしようということで、周りにいた人が発注して決まっていったという感じでしたね。僕はスタジオに行って、あ、今日はこの人なんだなって思うだけ。でも吾妻光良さんと一緒にやれたのは嬉しかったし、U.F.Oのメンバーとも当時はDJイベントで一緒にやってたんでね。どうしたら洋楽的なグルーヴを出せるか? にこだわってた。

SESSIONS - 92年リリース
『SESSIONS』
(92年リリース)

——ではサードアルバム『EYES』について。

田島 『EYES』ぐらいからね、レコーディングするということがどういうことなのか、サウンド・プロダクションをどこまでこだわらなきゃいけないかとか、いろいろ現実的にわかってきたんですよ。レコーディングのスタイルができ始めた時期ですね。“LET'S GO!”という曲は、ドラムのループと一緒にリズム隊を録ったんですよ。そうすることによって、洋楽と同じようなグルーヴが出せるんじゃないかなと思って。その前に“ミリオン・シークレッツ・オブ・ジャズ”という曲があって、今回ボーナス・トラックで入ったアナログ・バージョンがあるんですけど、その時に実験的にちょっとやってみたのね。そうすると、洋楽的なグルーヴになったんですよ。当時、ファンキーなビートが叩けるドラマーってなかなかいなかったの。僕は基本的に洋楽ファンだから、どうしたら洋楽的なグルーヴを出せるか——まずグルーヴを出そうとするミックスダウン・エンジニアもいなかったしさ。当時は低音が出てなくて、ペナペナな音で、歌謡曲っぽいのミックスをする人がほとんどだった。で、“キックをもっと出してください”“スネアのリヴァーヴをなくしてください”って、そこでもめたりするわけですよ。プロデューサーがいたら楽だったんだけど、僕一人で、25,6のガキだったから、なかなか説明も難しかったよね。ただサードぐらいから、ちょっとセールスも上がってきたから言うことを聞いてくれるようになってさ(笑)。『EYES』からはエンジニアが森岡徹也さんっていう、ピチカート・ファイヴで一緒にやってたエンジニアなんだけど、森岡さんはすごく良かったね。こだわりがある人だから、ピチカート・ファイヴの頃は一切僕の言うことは聞いてくれなくて、でも『EYES』の頃からは二人でいろいろ言うようになっていて。彼が頑固なアナログ派なんですよ。アナログ・マルチで録りたいとか、卓もNEVE(ニーヴ)でとか、すごいこだわりのある人で、今でも遜色のない強い音ができたし、『EYES』ぐらいからグルーヴというものがレコーディングされるようになった。それ以前まではさ、やっぱり音質面で邦楽だったんですよ。邦楽を馬鹿にしてるわけじゃないけど、グルーヴとか、クロいとか、音楽を聴いてノレるとか、メジャーのアルバムでそれをやるのはなかなか難しかったの。でもそれが『EYES』ぐらいから出てきたので、やった!と思いましたよ。それ以前までは、サウンドがショボイからヴォーカルでガナっちゃって、でもだんだんサウンドにグルーヴが出てくると、リラックスして気持ちよくノレてきたりするんですよ。自分の思い描いてるサウンドに近づいていった時期ですね。

SESSIONS - 92年リリース
『EYES』
(93年リリース)

——その次が『サニー・サイド・オブ・オリジナル・ラヴ』です。

田島 これはベスト盤。レコード会社の人が出したいって言うから、ハイって。でもただのベスト盤だと終わっちゃった人みたいだから、リミックスということにしようよと。リミックスというのは本来他の人がやるものだけど、自分でやりたいから“リアレンジだね”って。それでこういう形になった。当時は何でもやらせてくれたし。その代わり時間がなくて、とにかく急いで次から次へ、テンパってましたね。大変でした。

Sunny Side of Original Love - 93年リリース
『Sunny Side of Original Love』
(93年リリース)

今でも胸を張って聴いてほしいなと思える
アルバム『風の歌を聴け』


−−そして、次がいよいよ『風の歌を聴け』になります。

田島 これは今でも胸を張って聴いてほしいなと思えるアルバムですね。サウンド・プロダクションがいいし、グルーヴがあるアルバムだと思うんですよ。そこを聴いてほしいな。全員日本人のメンバーで、こういう太いグルーヴが出せてすごくうれしかった。その前にメンバー・チェンジをしたんだけど、佐野っち(佐野康夫/Dr)と小松(秀行/B)の二人が入ったことは僕にとってすごく大きかったですよね。二人と最初に自分の曲を合わせた時の感動がすごく大きくてね、新しいアルバムのアイディアがたくさん出てきちゃって。それ以前までは頭の中ではグルーヴが鳴ってるんだけど、出てくる音が違う! っていう感じだったんだけど、佐野っちと小松と一緒にやった時に“これだ!”っていう感じだったんですね。そうすると“The Rover”みたいな曲も書けるわけですよ。それ以前だったら、“The Rover”みたいな曲はイメージでできるけど現実的には無理だなっていう感じだったんですよね。でもこれだったら行ける!ということになって、アイディアがたくさん出てきて、それを存分にやったのが『風の歌を聴け』ですね。すごい短期間で作ったんですよ。曲作りに1か月で、レコーディングも1か月。

——すごいペースですね。

田島 リズム録りがもう楽しいわけですよ。音楽の演奏ってすごいな、と思い始めた時期ですね。プレイバックを聴くと“やったね!”っていう感でさ。その前までは、はいリズム録りができました、こんな感じだねっていって、これをアレンジでどうやっていい方向に持っていこうか? ダビングして、っていう考え方だったんですよ。でも『風の歌を聴け』ぐらいから、もうダビングしたくなくなってくるんですよ。リズム隊がカッコいいから。デモの時にダビングの楽器が入ってるからやっぱりちょっと入れようか、でもスリルがなくなっていくねとか言って、どんどん引いていく方向になりましたね。あとね、『風の歌を聴け』ぐらいから、最初からホーンと弦のアレンジを作ってた。プライベート・スタジオでマルチのテープに最初から管と弦のサンプラーやシンセ音源で作っておいて、レコーディングの最初の日にそれを流し込む。メンバーはそれを聴きながら演奏するから、アレンジされた状態でプレイしてるから無理がないんですよね。あとは、それを生の楽器に変えていくだけ。

——この6枚は、田島さんにとって「土台」という感じですか?。

田島 土台、なのかな——?

——この時期をひとことで言い表すとすると?

田島 う〜ん——初期。ハッハッハッハッ(笑)。

——それはその通りです(笑)。

田島 まぁ未完成な時期で、『風の歌を聴け』でやっと形ができたなという感じですね。『風の歌を聴け』が僕の最終的な完成かといったらそんなことはないんですけど、ミュージシャンとしては、ここから始まったのかなと思います。

風の歌を聴け - 94年リリース
『風の歌を聴け』
(94年リリース)
サイコーの4thアルバム。ボーナストラックは「The Rover(Takao Tajima Remix)」、「It’s A Wonderful World(Takao Tajima Remix)」。
Original Love Official Website ORIGINAL LOVE オフィシャルサイト
http://www.originallove.com/
standard of 90's X rock'n'roll news
 今の視点で新しい世代に届けたい90年代の名盤を復刻するシリーズ「standard of 90's」。
『BARFOUT! Vol.148』からスチャダラパー・SHINCOとの対談を転載させていただきました!


December 2007
Vol.148 より

1993-2007 Individualists Now Vol.4
SHINCO (スチャダラパー)

 彼らのデビューは早かった。90年。まだ、ヒップホップが認知される前。しかも、いきなりのオーヴァーグラウンドでの展開は、孤軍奮闘感があった。が、同年代が集まって、下北沢〈SLITS〉で、イヴェント『LB祭り』を開催。その小さなサークルから、94年、小沢健二と組み、名曲「今夜はブギーバック」が生まれた。あれから10年。近年は、アルファとのユニット、アルファ&スチャダラパーや、電気グルーヴとのユニット、電気グルーヴ×スチャダラパーなどの活動を経て、今年2月に、スライ・マングースとロボ宙と、新バンド、THE HELLO WORKSを結成。12月5日に、1st.フル・アルバム『PAYDAY』を発表する。今回は、トラック・メイカーのSHINCOと、語ってみた。
対話_山崎二郎 撮影_斎藤隆悟

山崎 スチャって、今のシーンを見ても、いない存在なんですよね。

SHINCO ちょうど、デ・ラ・ソウル、ア・トライブ・コールド・クエスト、ジャングル・ブラザースとかが出た時に、大体同い年ぐらいだったんですよね。デビューする前に、デ・ラ・ソウルが来日して、前座で回ったんですけど、同い年だから感じが似てるというか。「変わんねぇな俺達と」って思ったのは覚えてる。

山崎 どの時代のヒップホップと最初に出会うか?って大きいじゃないすか?

SHINCO そうなんですよね。だから、デ・ラ・ソウルとかの辺を聴いて、「これはやっぱ、自分でやらなきゃ」って思えたから。そうは言っても、彼らは、あの頃にしては、ちゃんと古き良さを知ってやってる感じが、ありましたからね。白人にも聴きやすかったけど、実は、ちゃんとマナーに則ってたというか。デ・ラ・ソウルと一緒に回って驚いたのが、意外にオーソドックスで、基本に忠実で、ターンテーブル・ライヴで。そこも結構衝撃で、影響受けましたね。

山崎 〈SLITS〉での『LB祭り』。最後の方はファンの人達もすごい状況だったけど、あのメンツの揃え方、狭い界隈ながらも、なかなか揃ってた。

SHINCO 揃ってたんですかね(苦笑)。まぁ、川辺(ヒロシ)くんが、デカイっつうか。元々、友達同士が、共通の友人を介してくっついたみたいな感じではありましたけどね。

山崎 今の世代の人達は、ヒップホップというフォームからどこまで飛べるか?ってやる段階だと思うけど、何気にあの頃、無意識にやってたんですよね。

SHINCO もう、かつてのああいったヒップホップは、成り立ちずらくなってますからね。ああいったステージはまだやれるかもしれないけど、得体の知れないレコードから拾ってきて、「どこからサンプリングしてるか、分かるわけねえだろ」って思いながらやるっていう感覚は。

山崎 ヒップホップというフォーマットが定着した後に起きることを、定着する前に起こしてたっていう。

SHINCO それはあると思う。細分化してなかったですからね、当時は。やりたいことはたくさんあるのに、チャンネルがないから、全部ほうり込んじゃってた、みたいなところがありましたからね(笑)。

山崎 過剰にぶっこんじゃってた。

SHINCO 若さか分からないけど、まだアウトプットが限られてたから。「音楽やりたい、文章書きたい、コント書きたい」を、全部イヴェントに、ぶっこんでましたからね(笑)。ついでに「ヴィデオも作りたい」みたいな。

山崎 かなり前衛的だったと思う。今から見たら。

SHINCO アウトプットがなかったですから。今は何でもできるでしょうから。

山崎 で だから、今だったら、3曲ぐらい作れちゃうネタを1曲に入れちゃってたり?

SHINCO そうなんですよね。今、多少は分別がついてる中で振り返ると、そういうことなのか?と思いますね。

山崎 前作と決定的に違ってないと、いけないんじゃないか?っていう空気もありましたよね。

SHINCO そういう感じありましたよね。何故だったんだろう?と。「開けてきた」っていうのもあったんですかね、シーン自体が。身近だと、ソウル・セットがロック・バンドみたいな見られ方をし始めた頃じゃないですか?

山崎 『 5th wheel 2 the coach 』の頃は、どんな意識で作ってたんでしょう? 時間かかってたけど。

SHINCO なんか、さんざん引っ張られてた気がする。トラックを作るのが面白くて。あー「今夜はブギーバック」が売れたっつうのがなぁ。「あれれー、どうしよう!」みたいな(笑)。「邪気なく作った曲が売れちゃった」みたいな。移籍もしたし、「売れんだろう?オマエ達」みたいなのが、ありましたからね。規模がデカくなって(笑)。

山崎 95 年ですか? いくつでした?

SHINCO 25 ぐらいですね。個人的なことを言うと、実家を出たのがデカかったですね(笑)。遊びにターボがかかって。

山崎 それで「部屋で朝まで系」が増えたと?

SHINCO そうですね。小沢くんとかとも、よく遊んでたから。小沢くんも、ものすごいことになってましたからね。

山崎 「もっとマイ・ペースでやりたい」とか?

SHINCO とかいっても、ひんしゅく買いながらも、期日は守りませんでしたからね(笑)。せっつかれてる感じはしてたなぁ。テンパってるっちゃ、テンパってた。

山崎 基本的にゆるーい人たちが、テンパってて。

SHINCO 「のんびりしてられないんだ」って。

山崎 みんな、ガツガツしたタイプじゃなかったじゃないですか? 「上がっていくんだ!」的な。

SHINCO うん。そこがね、今1つ、こう(笑)。まぁ、現在に至るって感じで(苦笑)。

山崎 同年代の刺激は感じてました? 「こう来たか!」みたいな。

SHINCO そこも結構デカかったんですよね。身内の反応を一番気にしてた。厳しいっていうか、そこをクリアできないとって。信頼できるから。ソウル・セットも『 Jr. 』とかの辺って、鬼気迫るテンションがありましたもんね。あの頃のスタジオでの制作スタイルはすごかった。2、3週間、家にあるレコードを全部持ってきて、ずっと聴いてて、ダラダラやってて。遊びに来た友達の声とか入れたりとか。信濃町の〈ソニー・スタジオ〉で延々と(笑)。合宿みたいな感じで。

山崎 「渋谷系」で、いきなりドカンと。今思うと、どういう時代だったんですかね?

SHINCO そこからミュージシャンの質が、変わったんじゃないか?と思いますね。「なんとなく分かる」っていう人が増えてきたっていうか。それを見てた人達が、今やってるからよりスマートになってるような気がする。

山崎 リスナーの音楽偏差値が高かった。

SHINCO 広がった感じがしましたよね。あと、各々、マニアがいるっていうか(笑)。

山崎  アウトプットが少なかったから、インプット過剰、みたいな。

SHINCO そうですね。今は、インプットは、そんなに迷わずに、すぐアクセスできるようになってるし。

山崎  逆に今は、アウトプット過剰というか。

SHINCO それはありますね。勘違いみたいなのが、結構良い風に転がってるみたいなのもあるけど。

山崎  当時と今、ヒップホップはどう変わりました?

SHINCO 人種って意味じゃなくて、趣味のジャンルとして、マイノリティの音楽ではない気がしますね。特にアメリカを見ると、一番売れてる 10 曲のうち、何曲がヒップホップ、みたいなのもあるし。よりパワー・ゲームになってますしね。売れる名前も決まってきてるし。「ラップで全米 1 位」みたいなのが、今や普通になったから。そこが変わりましたね。

山崎 日本では?

SHINCO 馴染む人はいいけど、なかなか日本人には難しいところがありますけどね。全体の構造も違うし。

山崎 メインストリームでは、結局、フォーク的なものにとりこまれた感もあって。

SHINCO メンタリティが、意外とそっちに行くんだっていうのはありますよね。保守的っていうか。

山崎 切ないことを、メロディを付けずに言うのがラップだ、みたいになっちゃってる。

SHINCO なるたけ最大公約数でね。でも、「春」、「別れ」、「桜」で、切なくならない日本人はいないというのが、メンタリティの面白いところというか。

山崎 生活自体は変わりました?

SHINCO とりあえず ANI が結婚したから(笑)。昔は兄弟一緒に住んでたからなー(笑)。

山崎 音楽と関係ない趣味とかあります?

SHINCO 写真を趣味って言っていいのか、分かんないし……。そんな、ないすかねぇ。

山崎 学校の同級生と話すと、大人だなと思うし。

SHINCO そうなんですよね。さすがに子供ができたら、自分にフィード・バックばっかできないだろうな。俺1人ぐらいなら、のたれ死んでもいいかな?みたいなのがあって。

山崎 当時、何気に聴いてたフレーズが、今は重いですよ。〈パーティーを続けろ〉って。

SHINCO 当時の自分達のフレーズにギョっとすることって多くて。昔、山田太一さんと対談した時に、あの人も若い時に老人の話ばかり書いてたんですよね。若い時の方が、より辛辣に言えたりして、びっくりしますよ。

山崎 今、スライ・マングースと、 THE HELLO WORKS を始めて、どうですか?

SHINCO 自分達がやらないようなテンポやリズムや構成が多いので、ライヴが楽しいですね。「これがバンドの一体感か」みたいなのがあるし。しかし、スライ・マングースに惚れ惚れしますね。

山崎 もうすぐ、ヒップホップで 20 周年。すごい!

SHINCO 来年ですね。まぁ、パブリック・エネミーとか、まだやってますけどね。僕たちもレコード会社が潰れたり、いろいろありましたけど。また、歩調を合わすように、ソウル・セットも出すしね(笑)。

(10月15日/桜新町にて)


standard of 90's
今もなお、熱いリスペクトを集める90年代音楽シーンを作り上げてきた名盤復刻シリーズ『standard of 90's』。第1弾、オリジナル・ラヴ、スパンク・ハッピーに続き、第2弾として登場するのが、TOKYO No.1 SOUL SET、スチャダラパー、Great3の3組。アーティスト公認、リマスタリング、当時のアナログを紙ジャケ化(一部除く)という07年リマスター決定版となっています。他詳細はstandard of 90'sまで。



『5th wheel 2 the coach』
11月28日発売
〈EMIミュージック・ジャパン〉
ボーナス ・ トラックは、「 Nobel Naughty Beats 」。ライナー ・ ノーツは、川勝正幸。



『偶然のアルバム』
11月28日発売
〈EMIミュージック・ジャパン〉
ボーナス ・ トラックは、「クライング・ドゥービーマン」パンチミックス。ライナー ・ ノーツは、佐野郷子。



『東芝クラシックス 95-97』
11月28日発売
〈EMIミュージック・ジャパン〉
ライナー ・ ノーツは、堀 雅人。
■information
THE HELLO WORKSの1stアルバム『PAYDAY』が〈tearbridge records〉より12月5日発売。12月2日(日)には、『THE HELLO WORKS presents 「PAYDAY」』を〈リキッドルーム〉にて開催。オープニング・アクトは、サイプレス上野とロベルト吉野。また、ラジオ・レギュラー番組『SCHA NOVA』が〈TOKYO FM〉にて、毎週土曜日 24:30〜25:00オンエアー中。他詳細は、www.schadaraparr.net/まで。




『BARFOUT!』12月号
発売中
standard of 90's X rock'n'roll news
  今の視点で新しい世代に届けたい90年代の名盤を復刻するシリーズ「standard of 90's」。
『BARFOUT! Vol.148』からTOKYO No.1 SOUL SET・BIKKEとの対談を転載させていただきました!


December 2007
Vol.148 より

1993-2007 Individualists Now Vol.3
BIKKE(TOKYO No.1 SOUL SET)

 来年5月で15周年を迎えるバァフのアニヴァーサリー企画。創刊当時から今に至るまで「個」を貫き通している表現者と、同じく、ずっとバァフを作ってきた僕が、07年の視点で当時を検証しつつ、今はどうか?というテーマのミーティング。今月はまず、新しいレーベルで活動再開。 12月の『Innocent Love/Please tell me』から、2ヶ月連続で配信シングルをリリースし、来春にはニュー・アルバムを発表予定のソウル・セットからBIKKEが登場。95~98年まで、バァフにて「夜明けまで」を連載。それをまとめた単行本『あきれるほどのゆくえ』を99年に刊行したが、毎月、酒を酌み交わしてた(酔っ払ってた)記憶がある。そのBIKKEが今、酒をやめたと! ならば、当時と今の意識の変化を訊いてみたい。
対話_山崎二郎 撮影_伊藤大介

山崎 最初は英語でやって、で、日本語でやろうと。リズムに乗せようというのは、全くなかったの?

BIKKE 俺なりに乗ってると、常に思ってるんですけど。そこがおかしいっていうか。いっぱい韻とか踏まないし、メリハリがないから、分かんないんですよ。

山崎 当時、ヒップホップは聴いてた?

BIKKE サラッと流行ってるのを耳にしたっていうか。パブリック・エナミーとか、ジャングル・ブラザースとか、ア・トライブ・コールド・クエストとか、デ・ラ・ソウルとかは聴いてましたね。でも、その辺だけです。

山崎 当時、スチャダラパーや小沢健二といった同年代が出てきて、それぞれ人気が上がっていって。今、振り返ると、どんな時代だった?

BIKKE 時代のバブルっていうのは、終わりかけだったかもしれないけど、俺はもう、バブルって印象だけですね。もちろん、一生懸命はやってたけど、それ以上にバブルっていう想い出の方が大きいですね。当時は分かったような気がしてたけど、本当に何も分かってなかったと思いますね。ただ一生懸命、作品を作ってはいたけれど。

山崎 それまで年上ばっかりだったのが、気が付けば、同年代のメンツになって。その時に、自分達の時代が来た感というのは?

BIKKE んー、でも、ちょっと、どこか、気持ちの中で奢ってましたね。「俺が一番だ!」と思ってました。全然トップだと思ってました。実際はトップじゃなかったけど、「誰にも負けてない」と思ってました。

山崎 同年代の活躍に刺激を受けたり?

BIKKE 刺激にはなりましたよね、世代が一緒ということは。上とか下ならいくらでも言い訳がつけられるんですけどね。特に先輩であれば、「いやいや」と言えるし。若いヤツなら、何かと文句も言ってたと思うけど、同じ世代だから、「いいな」と思えることをやられちゃうと、「頑張らないとな」とは思いますよね。

山崎 メジャーからリリースして、『 Triple Barrel 』から『 Jr. 』と、作るたびにレヴェルが一気に上がった感じがしてて、すごいなーと思ってた。

BIKKE 『 Jr. 』の時はレコーディングが大変でしたね。慣れない感じのことをやってみたり、「えっ、こんな遅い BPM で?」とか。そうでなくても、ソウル・セットはそんなに速くないのに。そうなってくると、お手本にする人がいないんですよ。ラップの譜割りなんかも、どういう風にしたらいいか分かんないし。

山崎 あの時、バァフで「夜明けまで」って、詩の連載をやってたじゃない? そういえば、いつも「なかなかできない」って言ってた記憶が。

BIKKE 今だと分かるんですよ、すごく。結局、歌詞を書く上で、「気持ち」とか「想い」とかをひたすら書けばよかったかもしれないのに、「考え」を書こうとしてたんですよ。今振り返ると。当時はそれに気が付かなかったけど。だから、言葉が出て来ないんですよね。しかも、どこかで何かについて、パッと素直に思うようなことがあっても、「いや、今まで、こういう表現はもうされてるから、違う表現の仕方を」って、ないものをないものをって考え方だったから。そうすると、段々となくなって来るんですよ。無理なことをしてたんですよね。多分、そういう時期だったと思うんですよ。何かが「美味しい」って思っても、「それ以外の美味しいものがあるんじゃん?」って。「いや、もうこれ以上ないです」っていう(笑)。そこで、「美味しい」って言ってたら、楽だったのに。

山崎 でも、当時、周りのアーティストって、みんな、そういう風に、「前と同じのは嫌だ」って気持ちで、作っていたじゃない?

BIKKE うんうん、そうでしたね。

山崎 前作とそんなに変わってないと、出しちゃいけないんじゃないか?的な空気まであったような。

BIKKE 「何、普通なことやってんの?」みたいな。なんだったんですかね?あれ。それぞれが、自分の存在価値みたいなものを、作品に見出してたのかもしれないし。「みんなと同じ服装は嫌だ」ということで、自分の存在価値を見出す人がいますけど、それの音楽版、ということもあったと思うんですよね。

山崎 歌詞でも、そういう「違い」について言うことが多くなかった? あんまり変わらないことに対してズバッと言うみたいな。例えば、〈大胆なヴァリエーションに過ぎない〉とか。

BIKKE 言ってましたねぇ。あと、もう1個は、そういう考えがあった裏には、本当に自分が素直に感じてるものっていうのがあるんだけど、自分がカッコ悪いとか、恥ずかしいとか、もちろん照れもあって、素直に出せなくて。自分のことがあまり好きじゃなかったのかもしれない。だから、それを、ひたすら隠す方向でやっていたっていうのはありましたねぇ。

山崎 「こうあらねば」というところに、無理矢理持っていくみたいな?

BIKKE そうなんですよね。「漠然とした理想」みたいな。それが、見えないから、キツイんですよ。

山崎 BPM が遅くなって、もはや、ヒップホップとか、ダンス・ミュージックのビートじゃないトラックになった時、どうやって順応できたのか?って。当時は当たり前に聴いてたけど、今、思うと、すごいなと。

BIKKE その前から、俗に言うヒップホップみたいなトラックはなかったですから。

山崎 でも、どんどん広がってって、「こんなのも入れちゃうんだ」ってなってって。

BIKKE 当時はなんとも思ってなくて、「そういうもんだ」と思ってました。こちらも許容範囲が広くなってるから、良い意味で、乗れるものは乗れるっていう。でも、『 Jr. 』は特別でしたね。別格のライン。だから、『 Triple Barrel 』、『 99 9/9 」みたいな流れで、『 Jr. 』が来たら良かったかもしれないけど、いきなり『 Jr. 』が来ちゃった感じだったから。

山崎 『 Triple Barrel 』から、いきなり『 Jr. 』に上がっちゃったから、その後も、同じようなアップ度になるのが当たり前だと思ってしまっていたなぁ。

BIKKE 無理ですよ。「次、どんな音楽にチャレンジすんの?」っていう。より、聴いたことがない音楽になっていくしかないじゃないですか? 本当に枠を越えちゃったってことになっちゃうじゃないですか?と。

山崎 今、あらためて、どんなムードでソウル・セットをやろうと?

BIKKE もう、どんなムードもないですけどねぇ(苦笑)。相変わらず、他の2人はどう思ってるか分かんないけど。でも、結局、続けてるってことは、何かみんなの中で意味があるんだろうとは思ってるから。どうせやるんであれば、俺はもう、言い方は変ですけど、良いものを作って、売れたいと思ってます。それが目的です。通用するか?とか、理解してもらえるか?とか、受け入れられるか?とかはさておきなんですけど。もう、僕の中には、ターゲットにしてるリスナーとかは選ばないですけどね。昔はあったと思うんですよ、多少。特にサブカルみたいなとこで。今はもう、普通にお茶の間に届くような歌詞が書けたらいいなと思いますね。

山崎 どう、書き方は変わったの?

BIKKE 今は素直に書こうとしてるんです。パッと思ったことを書くし。あと、歳もとってきて、なんとくやっと、もうみんな、とっくにしてることだけど、普通に生活するってことを意識し出して(笑)。そうすると、日常に根付くから、言葉が自然と出て来て。本当はみんな、当たり前にやってるようなことが、 40 歳前にして、初めて気付いたことが多いから。それは、僕にとっては特別で。だから、それを素直に書いてるんですよ。普通の生活が、俺にとっては幸せで素敵でっていう(笑)。ただただ。今までは、ちょっとおかしい人生だったから。

山崎 極端に言っちゃうと、今までは日常というのがなかったのでは?

BIKKE そうなんですよ。なんか、ちょっと前に、すごく、フワッと思った時があったんですよね。「もう、次、やる時は、すごくなんか、突き抜けたい」って。だから、「もう、近場のことだけを見てたらダメなんだ」というのが、漠然とですけどありました。でっかいものを、大きい感覚でもって捉えていかないと、自分が今行きたいなと思ってる所には行けないなと。まだまだ書き切れてはないと思うけど、順を追って作品には書いていってるって感じで。

山崎 いまだに、今いるこの場所から、違う場所へ、という感覚はあると?

BIKKE うん。あります、あります。でも、行けると思ってます。もう、見えてますね。あの頃の漠然さと今の漠然というのは、ちょっと違う感じがしてて。今はもうイメージが確実に見えてますね。だから、あとは、一個一個大切にやっていけば行けるんだと。

山崎  アルバムを今、制作中?

BIKKE 3月かな。その前に配信で3曲出して。歌詞は全部できてる。まだまだ、できるって感じで。

(10月11日/桜新町にて)

standard of 90's
今もなお、熱いリスペクトを集める90年代音楽シーンを作り上げてきた名盤復刻シリーズ『standard’s of 90’s』。第1弾、オリジナル・ラヴ、スパンク・ハッピーに続き、第2弾として登場するのが、TOKYO No.1 SOUL SET、スチャダラパー、Great3の3組。アーティスト公認、リマスタリング、当時のアナログを紙ジャケ化(一部除く)という07年リマスター決定版となっています。他詳細はstandard of 90'sまで。

『 Triple Barrel』
11月28日発売
〈BMG JAPAN〉
ボーナス・トラックは、「キャノンボール」、「グランプリ」、「地図の画されたトランプ」、「やあ、調子はどうだい」。ライナー・ノーツは、 荏開津 広。




『 Jr. 』
11月28日発売
〈BMG JAPAN〉
ボーナス・トラックは、「ロマンティック伝説 + 」、「 SALSA TAXI 」。ライナー・ノーツは、 荏開津 広。




『真昼の完全試合』
11月28日発売
〈BMG JAPAN〉
監督・タケイ・グッドマンによる 96 年発表の初映像作品。ヴィデオ・クリップ、ライヴ映像、撮り下ろしストーリー映像などを収めたものを、初 DVD 化。


























































































■infomation
12月1日より、デジタル・シングル『Innocent Love / Please tell me』配信スタート。続いて1月1日にもデジタル・シングル配信予定。来年春には、ニュー・アルバム発表予定。また、恒例の年末ワンマン・ライヴも敢行。『tell me,tell me,tell me 』12月29日(土)〈リキッドルーム〉にて。他詳細は、 www.t1ss.net/まで。


『BARFOUT!』12月号
発売中

今の視点で新しい世代に届けたい90年代の名盤を復刻するシリーズ「standard of 90's」。
 Original Love・田島貴男さんのインタビューに続いて、『BARFOUT! Vol.147』から沖野修也さんとの対談を転載させていただきました!

November 2007
Vol.147 より

1993-2007 Individualists Now Vol.2
沖野修也(KYOTO JAZZ MASSIVE)

 来年5月で15周年を迎えるバァフのアニヴァーサリー企画。創刊当時から今に至るまで「個」を貫き通している表現者と、同じく、ずっとバァフを作ってきた僕が、07年の視点で当時を検証しつつ、今はどうか?というテーマのミーティングを前号からスタート。今月は、オーガナイズするクラブ〈THE ROOM〉が15周年を迎え、各社から記念コンピをリリースする沖野修也を迎える。昨年、ソロ・アルバム『UNITED LEGENDS』を発表。DJという枠を超え、作曲家宣言をした。毎年開催している『Tokyo Crossover / Jazz Festival 2007』。今年は、そこで自分名義のライヴ・バンドを展開するという。あくなき、挑戦を続ける姿が素晴らしい。

対話_山崎二郎 撮影_斎藤隆悟



山崎 移り変わりの激しいクラブ業界で、何故、15周年も続いたと思います?

沖野 自分達が音楽を発信していくっていう、凄いこだわりがあったことじゃないですか? できた当時は、MONDO GROSSO、ラヴ・タンバリンズであり、その後Monday満ちる、UA、Chara、ACOがいて。メジャーだけじゃなくて、KYOTO JAZZ MASSIVE、SLEEP WALKERとか、最近だったらDJ KAWASAKIとか。〈THE ROOM〉が、いつも新しい音楽を作り続けてきたことですよね。それが今回、コンピレーションCDという形になりましたけど。去年、沖野修也としてアルバムをリリースしましたけど、それも〈THE ROOM〉発信の音楽じゃないですか? DJって、元々人の曲をかけるというカルチャーですけど、自分達で曲を作って、自分達のクラブから発信していくってことを、一貫してこだわってきたことが、15年続いた原因かな?と。だから「ヒット曲ないよな」とか「アシッド・ジャズがなくなって、次何かな?」ってことはなかったんですよ。常に〈THE ROOM〉のオリジナル・ヒットを産み出していこうと。時には、その時の音楽シーンと乖離してたかもしれないし、ドンピシャな時期もあったかもしれませんけど。トレンドは意識しつつも、「自分達らしさって何だろう?」ってことを今も探してますし。だから、店の売上的なピークって、随分前だったんですけど、クリエイティヴな意味ではまだまだ発展途上にあると思います。

山崎 〈THE ROOM〉ができた当時面白かったのは、歌モノとクラブものが、すごく近かったということで。

沖野 〈HMV〉なんか行くと、混ぜて置かれてました。

山崎 そうしたミックスを、実際に場として発信したのが〈THE ROOM〉だったんですよね。

沖野 それは瀧見憲司さんの存在が大きかったんですよ。僕はMONDO GROSSOやKYOTO JAZZ MASSIVEに、レア・グルーヴや踊るジャズに対するこだわりってのありましたけど、瀧見さんはフリッパーズ・ギターとかカヒミ・カリィとかラヴ・タンバリンズとかと繋がってたんで。〈SLITS〉(下北沢にあったクラブ)の流れも汲んでるわけですよ。僕らはロンドンで起こってるジャズで踊るカルチャーに影響されたし、大沢伸一くんは京都のニューウェーヴの系譜にいましたから。そういうものが〈THE ROOM〉で一緒になってっていう。

山崎 歌ものとクラブものも近かったし、日本とイギリスも近かった。

沖野 近かった。いや奇跡的でしたね。

山崎 しかも、イギリスと、同時進行だった。

沖野 そうです。だから、その後、僕とか大沢くんが、UA、Chara、ACO、birdとやったのも、〈THE ROOM〉がなかったら、僕らは「日本語なんて」って思ったままだったかも。〈THE ROOM〉では、英語も日本語も一緒にかかってましたからね。

山崎 現場が起こって混合実験。

沖野 その後、ファンキーでクラブ・オリエンテッドなJ-POPも、クラブ・シーンも大きくなっていって、いろんな人が偉くなってしまって、出会ったり混ざったりってことが難しくなってるんで、やっぱり、あの時期特有の現象だったかもしれません。Charaが普通に客でいましたからね。UAが「デビューする」ってサンプル持ってきたりとか、藤原ヒロシさんやムラジュン(村上 淳)がDJでいたり。かなり特殊でしたね。

山崎 なんだったんでしょうね?

沖野 大袈裟な言い方をすると、日本の音楽業界のターニング・ポイントだったかな?と。その後、また、どうしようもないポップスに戻っていきましたけど(苦笑)。オリジナル・ラヴ、フリッパーズ・ギター、ピチカート・ファイヴだけじゃなく、U.F.O.、MONDO GROSSO、Monday満ちると、日本語、英語の違いはありつつも、本当に若者が求めるリアルな音楽というのが、90年代初頭にはブレイクしたし、レコード会社の人も、そういうものに愛情があったと思います。単なる投資対象じゃなくて。ディレクター・レヴェルの人がそういう音楽を本当に好きだった。その人達は今、どこに行っちゃったか?というと、偉くなっちゃったから責任もあるじゃないですか? もしくは、音楽業界を離脱したり。だから、本当に奇跡的というか。アーティストも、まだまだ発展途上で、そんなに売れてなかったし。

山崎 リスナーの音楽偏差値も高まっていって。

沖野 僕らも若かったというのがあるかな? 20代半ばでクリエイターも現場にいたでしょ? 僕らも遊びたかったし。それまでの音楽業界って、作り手と聞き手が、同じ空間にいることってなかったと思うから。〈THE ROOM〉では、アーティストとお客さんが一緒に飲んでましたからね(笑)。それは面白いっすよ。オーディエンスのダイレクトな反応を、アーティストも嗅ぎ取ってたし。それこそ、その日できた曲を、その夜、プレイされるわけですから。

山崎 15周年ということで、予定は?

沖野 15周年盤コンピのリリース・パーティーをやります。15周年の一環で、『TOKYO CROSSOVER/JAZZ FESTIVAL』では沖野修也名義のライヴ・バンドをやるんです。

山崎 また、リスキーなことを。

沖野 ええ。「俺がやんなきゃ誰がやるの?」っていう。15年前のクオリティで、みんなやれてるか?っていうと、そんなことないんですよ。もう、40歳でリタイヤして、好きなことをしようと考えたこともありましたけど、いざ40歳になったら、「俺、全然ダメじゃん」みたいな。その為にも、沖野修也バンドを試してみたいなと。個人になると、責任が転嫁できないんで。去年、作曲家宣言をして、今年、自分の名前を冠したバンドをオーガナイズすることで、今までに感じたことのないプレッシャー、リスクってあります。でも、そこを乗り越えていかないと、僕が目指す境地には到達しないかな?と思っているんです。

(9月13日/恵比寿にて)



『The Room Weekender 15th Anniversary Special Edition compiled & mixed by Shuya Okino(Kyoto Jazz Massive)』』
(ポニーキャニオン)

『The Room Weekender 15th Anniversary Special Edition compiled & mixed by Tsuyoshi Sato(BLACK EDITION)』
(ヴィレッジ・アゲイン)

『The Room Weekender 15th Anniversary Special Edition compiled & mixed by DJ Kawasaki』
(コロムビアミュージック
エンタテインメント)

『The Room Weekender 15th Anniversary Special Edition compiled by Yosuke Tominaga & Oibon(CHAMP)』
(ユニバーサルミュージック
クラシックス&ジャズ)

共に、V.A.
発売中
www.theroom.jp














■リリース
『UNITED LEGENDS replayed
by SLEEP WALKER』
沖野修也
〈ジェネオン エンタテインメント〉
発売中
www.extra-freedom.co.jp

■ライブ
『Tokyo Crossover / Jazz Festival 2007』
11月22日(木)@〈ageHa〉
www.tokyocrossoverjazzfestival.jp


『BARFOUT!』11月号
発売中