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レギュラーコラム 末井昭

[2007年12月29日]
vol.16 空虚な愛

 上野に東京三世社という『実話雑誌』や『SMセレクト』といった雑誌を出していた出版社があって、そこでカットと描き文字をやらせてもらってたんだけど、たいてい夜呼び出されるんです。編集者が夕方から出てくるから。
 8時頃から机を借りて待機していると、編集者が「ここにカット描いてください」とか言ってレイアウト用紙を持ってくる。隣の机では、ベレー帽を被ったオジサンがサラサラ原稿を書いている。『実話雑誌』の原稿で、実話というからノンフィクションなのかと思っていたけど、実話はそのオジサンの妄想からどんどん出てくるんです。産婦人科でイタズラされた女性の手記とかね。
 僕も頼まれたカットや描き文字をその場で描く。突貫作業というか、現場でページがどんどん作られて行く。夜の10時、11時頃が一番盛り上がる時間で、僕も一番忙しくなる。「よし、メシ食いに行こう」とか「俺はちょっとトルコに行ってくる」とか編集者たちは言っている。「活気があるなぁ」と思いながら、モクモクと朝まで仕事をして、帰りのタクシー代をもらって帰ってくる。タクシーはもったいないから、始発の電車に乗るんだけど、グッスリ眠ってしまって気が付いたら電車の車庫に入っていたこともあります。
 その東京三世社で櫻木徹郎さんと知り合うんです。櫻木さんは編集をやりながら天象儀館という劇団に所属していて、その縁で天象儀館を観に行くようになって、荒戸源次郎さんや上杉清文さんを知るようになるんですけど、僕がアングラの世界を知るようになったきっかけは櫻木さんですね。のちに南伸坊さんが『さる業界の人々』という本を出すんですけど、この本に出てくるS君というのは僕で、Sさんは櫻木さんです。
 美學校に入ったのはアングラの影響もあったけど、出版よろず承り業に追われ、表現なんかどうでもよくなっていたからだと思う。カットや描き文字で自己表現なんてできないでしょう。かといって、表現欲がなくなっていたわけではなくて、表現を依頼されなかっただけのことで、表現欲は僕の中でくすぶっていたんでしょうね。
 美學校は難解本で有名だった現代思潮社が作った、いまで言うクリエーター養成学校で、その入学案内には「思想は教えられない。徹底した技術を教える」みたいなことを書いていたけど、実際は反対で思想を教えていたと思います。
 美學校を選んだのは、ファンだった赤瀬川原平さんが絵文字の授業をやっていたいたからです。他にも、木村恒久さんが図案、鈴木清順さんが映画を教えていたりして、錚々たる講師陣でした。しかし、入ったのは岡部得三さんのシルクスクリーン工房だったんです。僕にとって赤瀬川さんの教室は眩し過ぎて、近寄りがたかったんです。
 美學校に通ったのは半年ぐらいでしたね。シルクスクリーンで版画の真似事ができだして面白くなっていたんだけど、『NEW SELF』という月刊誌の編集を頼まれて、忙しくて行けなくなったんです。
 出版よろず承り業の中にはビニ本(当時は袋物と言ってましたが)の制作というのもあって、1册10万円ぐらいで請け負っていたんですけど、写真はすでにあるものをレイアウトするだけだったから割がいいんです。レイアウトったって写真はみんなタチキリですから。
 そのビニ本の仕事をもらっていた森下さんから、書店流通する雑誌の編集を頼まれたんですけど、それが『NEW SELF』。これが編集者の始まりです。
 チマチマした仕事なら自宅でできるけど、雑誌の編集となると事務所が必要なので、友達3人で千駄ヶ谷に部屋を借りて、3人の名前の頭文字を取って、ATMという銀行の自動支払機みたいな名前の事務所を作ったんです。アシスタントも必要だということで、美學校の同級生のTさんという女性に来てもらって。
 Tさんは僕より3つ下で、美術の先生を辞めて美學校に入ったと言ってました。美術とか表現の話ができる初めての女性で、だんだん仲良くなったんですね。
 Tさんと最初にセックスしたのは歌舞伎町のラブホテルでした。仕事の打ち合わせを新宿でしてたら雨が降ってきて、2人ともびしょ濡れになったんで、ラブホテルで服乾かしてから帰ろうみたいなことを僕が言って。「何もしないから」とか言ったかもしれない。
 ヌケヌケとよくそんなことが言えたと思うけど、チンチンが勃起していたからどうしようもないわけ。嫌がるTさんを強引にラブホテルに連れて行って、お互いずぶ濡れだから2人とも服を脱いで、寒いから2人でお風呂に入って、となるとセックスしないわけにはいかないわけで、ベッドに入ってしようとすると、Tさんが「泣くのは女の方だから」と言うので、「はて、なんのことだろう?」と思ったんだけど、コンドームのことだと気が付いて、あわててコンドームをチンチンに被せて。Tさんは処女でした。
 それからはTさんとセックスばかりしてましたね。事務所で仕事が終わると新宿に飲みに行って、そのあとラブホテルに行ったり。「今日は帰らないといけない」と言うと、「じゃあ送って行くから」とか言ってタクシーに乗り込んで、Tさんが住んでいたのはかなり郊外にある実家だったんで、タクシーの運転手さんが道がわからなくなって、ほとんど民家がないところをグルグル回っている。向こうにボーッとラブホテルのネオンが見えて、「じゃあここで降ろしてください」って、そのラブホテルに入ったり。いまでも鮮明に覚えているけど、周りが林と畑でラブホテルのネオンだけがボーッと灯いていて、そこがどこだかもわからない。夢の世界みたいな感じでしたね。
 そのうちにTさんが梅が丘に引っ越してきたんです。
 僕はその頃、経堂に住んでいました。結構稼げるようになっていたんで、Yとも籍を入れて、祐天寺のアパートから経堂のボロボロのマンションに引っ越していたんです。梅が丘は経堂の隣の隣で、自転車で行けば10分ぐらいで行けるから、事務所が休みの日は自転車で梅が丘に行って、Tさんとセックスして帰ってくる。
 Tさんは、お母さんが引っ越しのときにくれたという夫婦茶碗を見せてくれたりする。お母さんが娘に夫婦茶碗を渡した意味を考えると、なんだかせつなくなってくるんです。Tさんのことも好きだけどYも好きだし、Yにはいろいろ苦労をかけているし、別れることはできないし、なんてことを考えながら経堂と梅が丘を往復してました。
 そのうちTさんが事務所に来なくなったんです。しばらくして一通の手紙が来て、『あなたの手紙には、愛という言葉が15回書かれていました。でもその愛はとても空虚で、実体を伴わない愛です。』と書いてあったんです。Tさんが事務所に来なくなったんで、僕が手紙を出したんですね。何を書いたか覚えてないけど、おそらく「愛してる」とか「2人の愛がどうした」とか、そんなことばかり書いたんでしょう。その返事です。
 僕はTさんといるとき、現実を忘れ、あるいは忘れようとして、あのラブホテルのネオンがボーッと灯る夢のような世界にいたのかもしれない。しかし、Tさんはしっかり現実を見ていたのだと思います。
 Tさんが好きだったことは事実だけど、セックスしたいというのが90パーセントぐらいだったかもしれませんね。その本心を見透かされたみたいで、その手紙はかなりショックでした。
 それ以後Tさんとは会ってないけど、町でバッタリ会うんじゃないかと思って、しばらく恐かったですね。
(聞き書き:松田義人)



末井さん近況
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杉作J太郎監督の「チョコレート・デリンジャー」に(ちょっとだけ)出演しました。僕の役は警察署長だそうです。



末井昭(編集者)
1948年・岡山県生まれ。白夜書房・編集局長。キャバレーの看板描き、デザイナー、イラストレーターなどを経て編集者に。現在はサックスに夢中。主な著書に「素敵なダイナマイトスキャンダル」「絶対毎日スエイ日記」などがある。




vol.15 ピンクサロンの看板描き はコチラから。


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[2007年12月21日]
vol.15 出版よろず承り業

 キャバレーに勤めていると、ホステスさんと仲よくなってセックスしたりすることがあるんじゃないかと思ってる人がいるかもしれないけど、残念ながら一度もそういうことがなかったんです。
 割ときれいなホステスさんを集めてチラシやポスターの撮影をすることもあったし、慰安旅行で大勢のホステスさんと熱海に行ったこともあったし、チャンスはあったと思うけど、付き合うなんて思ってもみなかったですね。
 原因は託児所かな。仕事場と同じフロアにホステスさんの子供を預かる託児所があって、子供がウジャウジャいたから、ホステスさんはみんな子持ちだと思っていた。それに、なんとなく社内恋愛禁止みたいな風潮があったんです。
 ホステスさんは客とくっ付くより従業員とくっ付くことが多くて、そうするとそのホステスさんに指名を回したりするでしょ。すると他のホステスさんから苦情が出る。そのため恋愛禁止令が出ていたんだけど、社長は別格なのか、社長の愛人って噂されてるホステスさんがいたんですけどね。
 そんなことより、表現のことで頭がいっぱいだったのかもしれない。
 ホステスさんとセックスしたのは、池袋のクラウンで仕事をするようになってからで、表現なんてどうでもよくなっていて、看板描きに追われながら毎日モヤモヤしていた頃です。
 相手はクラウンのホステスさんで、「店が終わったら飲みに行かない?」って誘われて、帰らないとまずいかなぁと思いながらもモヤモヤに負けてしまって、ロマンス通りにある喫茶店で待ってたんです。それまで女の人から誘われたことがなかったし、ホステスさんはすっぽかすことが多いから、来ないかもしれないと思ってたら、本当に来ちゃって。入って間もないホステスさんで、店長の新人教育(触りまくる)で泣いていた人です。
 喫茶店を出て、居酒屋で少し飲んで、僕はお酒が飲めなかったからフラフラになって、足は自然とラブホテルに向かったんだけど、1軒目は満員で、2軒目も満員で、ようやく3軒目のショボいラブホテルに入ったんです。酔っ払っていたからセックスのことはよく覚えてないけど、Y以外の人とするのは初めてだったから罪悪感はありました。
 セックスのあとだったと思うけど、集会は好きかというようなことを聞かれて、その人の言う集会はどうも政治的集会じゃなくて宗教的集会みたいだったから、「これはマズい」って思いました。そのホステスさんとセックスしたのは1回だけで、それは集会のこともあったけど、だんだんクラウンから遠ざかって行ったからです。
 遠ざかった原因は、出版社の仕事を少しづつするようなったからです。ストリーキングの写真を撮ってくれたカメラマンYが出版社に入ったとかで、新しく出す雑誌の表紙のデザインをやらないかという電話が来たんです。嬉しかったですね。看板屋を1年ほど続けて、お金は稼げるようになっていたけど、何か虚しい気持ちでしたから。表現なんてどうでもいいと思っていたけど、表現欲がなくなった訳じゃなくて、表現欲を押し込めていただけだったんです。
 早速その出版社に行きました。場所は青山と聞いて、近代的なビルを想像してたら古い民家で、「あれ?」っていう感じだったですね。清風書房といって、高橋鐵監修の『愛苑』とか『りびどう』とかいう性科学雑誌を出していて、今度若者向けの『ヤングV』というエロ雑誌を創刊するから、僕にロゴと表紙のデザインをやってくれと言うんです。
 どんな表紙だったかなぁ? たぶん夏の風景だったと思うけど。入道雲と海があって女のシルエットがあって、みたいな。すぐに写真の表紙に変わったけど、創刊号はイラストだったんです。
 その創刊号が出たときは嬉しくて、何軒も本屋さんを回りましたね。初めて自分の作品が世に認められたみたいな気分で。いま見たら「なんだこれ?」みたいなもんだと思うけど。
 最初は表紙だけだったけど、そのうちイラストとかピンクサロンの取材とか頼まれるようになって、看板描くより面白いから、看板の方はだんだんおろそかになって、まぁ自然消滅ですね。
 当時のエロ雑誌の編集はいい加減でね、「2ページ空いたから何か描いて」「何描けばいいんですか?」「なんでもいいよ」みたいな依頼をされる。締め切りだけは早くて「今週いっぱい」とか。上手いかどうかは別として、早くて安いっていう訓練をさせられましたね。
 テーマは「なんでもいい」だから、自分の描きたいものを描けばいいんだけど、これが結構悩むんです。脂汗流しながら、アパートでアレコレ下描きして。「えーい!」ってことで、生首の絵を描いたり。それまで押さえていた自己表現欲が爆発しちゃって。海をバックにオナニーしている自画像とか、そんなのばかり描いてました。オナニーしようとして盛り上がっていた読者は、僕のイラストを見てガックリしたんじゃないですかね?
 打ち合わせと称して、編集者によく飲みに連れて行ってもらいました。打ち合わせと言っても「なんでもいい」だから、打ち合わせすることがないわけですよ。だから大体は編集者のグチを聞くわけです。「俺は中央公論にいた」とか「小説書いている」とか、エロ雑誌の編集者であることをコンプレックスに思ってる人が多くて、「イヤならやめりゃいいじゃないか」とか思ったりするんだけど、勿論そういうことは言えないから黙ってグチを聞いて、飲めないビールを無理して飲んで、気持ち悪くなって一駅づつ降りてようやくアパートまでたどり着いたこともあります。
 そういうのを見てたから、エロ雑誌の編集者だけにはなりたくないって思ってたんだけど、なっちゃったんですね。でも、この頃のことが教訓みたいになっていたから、いまではグチばかり言っていた編集者に感謝してるんですけど。
 清風書房の仕事は1年ほどやったのかな? なんだかやたらと雑誌が増えて、ついにエロ雑誌じゃないものを出すなんて言い出して。映画雑誌を出すから明日までにロゴ作ってくれなんて言われて。なんでそんなに急ぐのかわからなかったけど、作って持って行ったら会社が倒産したとか言ってみんながオロオロしてるんです。
 原稿料は最初のうちは小切手でもらっていたけど、途中から先付け小切手に替わって。小切手なんだけど3ヶ月後に銀行に持って行ってくれとか言われて。そういう先付け小切手が80万円ぐらいあったんです。倒産と聞いてあわてて銀行に持って行ったら「この小切手は無効です」なんて言われて。80万円がパー。
 でもこの倒産がきっかけで、一気に仕事が増えるんです。編集者がいろんな出版社(だいたいがエロ系でしたが)に散らばって、そこから仕事を頼まれるようになって、一気に取引先が増えたんです。その仕事もまちまちで、表紙のデザインからイラスト、挿し絵、漫画、取材記事、カット、描き文字、もうなんでもやりました。
 中には「明日までにイラスト30枚描いてくれ」みたいな注文があったりして。実用書1册分のイラストなんだけど、「絶対明日までに」って念を押されて。もうそうなると自己表現なんて言ってられないわけで、原稿を読む時間もないからイラストが入る箇所の原稿をチラッと見て、「水道水が体に悪い」って文字があったら、水道の蛇口から悪魔みたいなのが出ているイラストを、ほとんど下描きもしないで描く。ひどいもんですよ。
 朝方になってくると眠くて眠くて。まずセロテープを目尻に貼るわけ。瞼が落ちてこないように。それでも眠ってしまうから、今度はペン先で手の甲をチクチク刺して。それでも眠ってしまって、手だけは動いていてフニャフニャな絵を描いている。そのうち夜が明けて、間に合わなくなって、出版社まで行くタクシーの中で描いたりしてました。小さな製図板を首からぶら下げてね。
 その出版社には、期日までに取り次ぎに本を入れないと倒産するという事情があったんです。つまり自転車操業ですね。本を搬入したらお金がもらえるから、それを支払いに回す。だから、僕のイラストが遅れたら倒産するわけですよ。あるとき「申し訳ないけど10万円貸してくれ」って社長に言われて、断ったらすぐつぶれましたけど。
(聞き書き:松田義人)



末井さん近況
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下町のベリーダンサー、大正演歌師、ペーソスという、よくわからない組み合わせのイベントにゲスト出演しました(浅草・木馬亭)



イベント情報

■12月24日(クリスマス・イブ)原宿・リトルモア地下にて南伸坊さん、上杉清文さん、河井克夫さんと「渡辺和博展・ホーケー文明のあけぼの」のトークショーがあります。展覧会は12月7日〜25日。(20:00〜)

■12月25日(クリスマス)Asagaya/Loft Aにて西原理恵子さんとのトークショー「愛のドロドロ 金のボロボロ」があります。ペーソスも出演。(19:30〜)



末井昭(編集者)
1948年・岡山県生まれ。白夜書房・編集局長。キャバレーの看板描き、デザイナー、イラストレーターなどを経て編集者に。現在はサックスに夢中。主な著書に「素敵なダイナマイトスキャンダル」「絶対毎日スエイ日記」などがある。



vol.14 ピンクサロンの看板描き はコチラから。


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[2007年12月14日]
vol.14 ピンクサロンの看板描き

 上野クインビーのマネージャーが転職した店は、池袋のロマンス通りの入口あにある、クラウンというピンクサロンでした。1階が店で地下が事務室になっていて、コンクリート剥き出しの倉庫みたいなところをベニヤで仕切って机を置いてるんです。そこで、この店の店長になった元上野クインビーのマネージャーと、クラウン・チェーン3店鋪を持つ社長に会ったんです。
 社長は岡山の出身で、「アンタも岡山か、あそこはええとこじゃ、ワシもいつか岡山へ店出そうと思うとるんじゃ」って、こっちが恥ずかしくなるくらい岡山弁丸出しの人で、同郷のよしみってこともあってすぐ信用してくれました。
 さっそく看板頼まれたんだけど、看板作る場所がないわけ。看板描くだけならアパートでやれるんですけど、ベニヤ買ってきて看板から作るわけですから。でも、それもアパートでやりました。近くの製材所から小割とベニヤを買ってきて、隣の人がいない昼間、6畳の部屋でトントントントン。出来上がった看板に白い紙を貼り、水性のネオカラーで絵と文字を描く。「クラウン娘が大ハッスル」とかね。その上からビニールかけてでき上がり。
 それを店が開く頃に池袋に届けるんだけど、車があるわけじゃないし免許もないから、電車で運ぶわけです。ムキ出しだと恥ずかしいから新聞紙をかけて。でも看板を新聞紙でくるむと、相当怪しい感じになりますね。それにラッシュの時間帯でしょ、みんなから嫌な顔されて。「こっちは生活かかってるんだ」みたいな気持ちでみんなを睨み返してたから、乗客から見たら相当恐かったんじゃないですか?
 その看板を店に持って行くと、店長が店の入口に立てる。自分の作品が展示されたみたいで、ちょっと嬉しかったですね。でも、そういうのもつかの間で、看板の仕事に追われるようになるんです。
 1枚作って3千円でしょ。ベニヤや小割の原価を引くと、儲けは2千円ぐらいなものですから、量産しないといけないし、注文も多かったんです。3千円で安いってこともあったんですけど、僕が描く看板は女の子の絵を入れてるんで評判がよかったからね。
 特に忙しいのがクリスマスの前。看板だけでなくて、店内に飾るパネルやらメニューなんかも頼まれるんです。クリスマスになると値段が倍になりますから。パネルは女の子が悶えているような絵を蛍光カラーで描くんだけど、ブラックライト使ってるから、絵が暗闇に浮かび上がってきれいなんです。これも評判がよかった。
 そのうち、僕が看板を電車で運んでくるのを見るに見かねたのか、社長が地下室を使ってもいいって言ってくれたんです。地下は事務室とホステスさんの更衣室があって、更衣室といってもロッカーと申し訳程度のカーテンがあるだけだったけど、その更衣室の前のスペースで看板描くことになったわけ。
 看板描いているとホステスさんが出勤してきて、カーテンの向こうでドレスに着替えて上の店に上がって行く。僕が看板描いているのを見て、「それ描いていくらになるの?」とか聞くホステスさんもいる。店長がホステスさんを連れてきて、「この子脱から」って言うから、脱いでもらって写真を撮る。その間、店長はポーズを付けるとか言って、裸の女の子に触りまくっている。その写真を看板に貼って、怪しい感じにする。店の地下室で看板描くようになってから、結構モヤモヤするようになったんです。
 一番のモヤモヤは店長の新人教育で、未経験の女の子が入ってくると、地下室で新人教育するんです。ソファーを置いて、店長と女の子が座って、店長がスカートの中に手を入れて。「そんなことできません」って女の子が泣き出したりして。そういうのを看板描いている横でやるわけですから、モヤモヤしてきますよ。
 仕事が終わって、夜の10時頃外に出ると、足が真直ぐ駅に向かわないんです。当時のロマンス通り周辺はかなり怪しい店が多くて、ヌードスタジオなんかもあったんです。怪しいライトが灯いていて、女の人が手招きしている。ヨロヨロっと入りそうになるんだけど、勇気がないというか、お金の心配もあって素通りする。
 ヌードスタジオって、だいぶあとになって1回だけ入ったことがある。お金を渡すと脱いでくれるんだけど、ここから先はまたお金ってことで、裸になるまでに随分お金がかかるんです。その先も当然あって、僕もその先まで行ったんですけど、オカマでした。
 でも、その頃はまだ純情というか、勇気がないというか、風俗街をウロウロ歩き回るだけだったんです。モヤモヤしていると革命的な気分になるのか、上の店でドンチャン騒ぎしているのを聞きながら、かじかんだ手で看板描いていると、「みんなぶっ壊れてしまえ」って気分になってました。
 店長は相当のスケベでしたね。新人教育だけでなくて、だいぶホステスさんに手を出してるようでした。俺のは真珠が入ってるって自慢していて、その真珠で女が付いてくると思っているようで、この店の女の子も自分が連れてきたって言ってました。
 その店長から「たまにはうちの店で遊んで行ったら? 安くしとくから」と言われて、ピンクサロン初体験です。クインビーのとき、忙しいときはフロア係(要するにボーイ)をやったことや、ショーの照明を手伝ったこともあるから、キャバレーの雰囲気は知っていたけど、全然違うわけ。店内は真っ暗で、ホステスさんのドレスと歯だけが浮かび上がっていて、異様でした。マネージャーがタンバリン叩いて、音楽に合わせて「チンコマンコ、チンコマンコ」と怒鳴っている。よく見ると、裸同然のホステスさんがお客の股間に顔をうずめている。僕はモヤモヤしてたけど、ホステスさんとは地下で顔を合わせていたから恥ずかしくて、何もしないで出ましたけど。
 その代わり、よそのピンクサロンに行くようになったんです。店長から「よその店を調査しに行こう」と誘われて、池袋だけでなく蒲田とかのピンクサロンにも行くようになって。まぁ調査と称して、店長が僕にお金を払わせて遊びに行きたかっただけなんだけど。
 そういうとき僕は大胆でした。席に案内されると、いきなりズボンを脱ぐ。なんかホンネを隠すっていうか、本当はチンチンをしごいてもらいたいのに、最初はどうでもいい世間話とかしちゃって、少しづつ触ったりしてっていうのがイヤなんです。どうせ抜いてもらいたいんだったら、いきなりズボンを脱ぐ。ホステスさんから「まぁ大胆ねぇ」とか言われて。大胆なことをしようっていう気はなかったんだけど、ピンクサロンを裏から見てるから、普通のお客さんになれないというか、スケベな客の芝居をしていたような気がしますね。
 ある日、社長が「店長を知らんじゃろか?」と言うんです。店長が行方不明になったみたいで。それから2、3日して、僕が看板描いているところに店長がヒョッコリ現れて、前の店に移ったと言うんです。クラウンの真ん前ですよ。すごいなぁと思いましたね。しかも、店の女の子を何人か引き抜いてですよ。
 それで、僕に看板描いてくれって言うんです。断りきれなかったのかお金に目がくらんだのか忘れたけど、社長に内緒で、前のキューピットという店の看板を描くようになったんです。最初はキューピットの店内で描いてたんだけど狭いから、社長が出てくる前にクラウンの地下で描いていたら社長に見付かって、「うちの店もそういうキレーなのを描いてもらえんじゃろか」とかイヤミを言われて。僕はもう開き直って、その後もそこでキューピットの看板描いていました。
 そのうち、他の店からも頼まれるようになって、一時期ロマンス通りに僕が描いた看板が林立してたんです。チラシも頼まれていたから、収入は多いときで30万円ぐらいあったかな。いまのお金に換算すると150万円ぐらいですかね?
 クラウン対キューピットのピンクサロン戦争はクラウンが勝って、店長はキューピットを追い出されて、またクラウンに戻ってきたんです。イージーな世界だって思いましたね。でも、給料を減らされたのか、僕に金の無心をするようになったんです。「儲かってるんだろ、少し回してよ」とか言われるようになって、だんだん店長が嫌いになりました。
(聞き書き:松田義人)


末井さん近況
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来年4月公開になる「靖国」という映画を観せてもらったが、すごく面白かった。
その映画を撮ったLI YING監督と鈴木邦男さん。



イベント情報

■12月24日(クリスマス・イブ)原宿・リトルモア地下にて南伸坊さん、上杉清文さん、河井克夫さんと「渡辺和博展・ホーケー文明のあけぼの」のトークショーがあります。展覧会は12月7日〜25日。(20:00〜)

■12月25日(クリスマス)Asagaya/Loft Aにて西原理恵子さんとのトークショー「愛のドロドロ 金のボロボロ」があります。ペーソスも出演。(19:30〜)



末井昭(編集者)
1948年・岡山県生まれ。白夜書房・編集局長。キャバレーの看板描き、デザイナー、イラストレーターなどを経て編集者に。現在はサックスに夢中。主な著書に「素敵なダイナマイトスキャンダル」「絶対毎日スエイ日記」などがある。



vol.13 ストリーキング はコチラから。


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[2007年12月07日]
vol.13 ストリーキング

 クインビー時代でいまでもよく覚えているのは、ストリーキングをやったことですね。まだパフォーマンスって言葉がなくて、ハプニングって言ってたと思うけど、身体的表現として素っ裸で街を走ることです。
 ストリーキングをやることになった理由は、「資本主義経済に魂を売ったデザイナーたちがスヤスヤ眠っている真夜中、俺は裸で街を走り、体でアスファルトにイラストレーションを描いてやる」という発想だったんです。当時のノートを見ると、バカみたいにそんなことばかり書いてある。カッコつけたデザイナーたちに逆襲するっていうか、たぶん嫉妬もあったと思いますけど。
 そのストリーキングのことを仲のよかった同僚のカメラマンYに言うと、「俺、写真撮るよ」と言ってくれたんで、俄然やる気になってね。緊張してたのか、インポになっちゃって。
 カメラマンYは立木義浩の「舌出し天使」なんかが好きで、僕と考え方が違うと思っていたけど、同僚の中では唯一芸術がわかる人で、よく話をしたり手紙の交換とかしてました。僕が出版の世界に入ることになったのも、カメラマンYのおかげなんです。
 ストリーキングをやったのは1970年11月25日、午前4時頃。いろいろ準備してたんで遅くなってしまって、真夜中というより明け方になっていて、かなり寒かった。
 まず上野駅前のガード下で服を全部脱いで真っ裸になって、首から数珠をぶら下げてね。御徒町の方に向かって走る。うしろからカメラマンYが追っかけてくる。走るだけならすぐ終わってしまうから、ゴミの中に飛び込んだり、閉まったシャッターによじ登ったり、電柱に登ったり。写真撮られることを意識していたと思います。
 明け方だから人通りは少ないんだけど、酔っ払ったホステスさんらしき女の人から「カッコイイわよ〜」って声をかけられて、ちょっと嬉しかったりして。御徒町の松坂屋のあたりまで走ってきて、近くの植え込みに隠していた看板に使う塗料のネオカラーの赤を頭から被ったんだけど、自分ではわからなかったけど、これはだいぶ迫力あったみたいです。事故にでも合ったみたいだったんじゃないですか? 松坂屋の守衛さんが飛び出してきましたから。
 その状態で道路を転げ回って。自分では道路にイラストレーションを描いてるつもりだったんだけど、人が見れば血だらけの男が悶絶してるように見えたかもしれない。警察に通報されると困るから早めに切り上げて、脱いだ衣服はカメラマンYが持ってくれていたから、とりあえずペンキを被った上から衣服を着て、カメラマンYとタクシーに乗ったんです。タクシーの運転手がビックリしてました。顔中血だらけみたいだったから。
 それで、野方に住んでいたカメラマンYのアパートに行って、シャワーを浴びてウトウトしてた頃かな、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺したってニュースが流れたのは。だからこの日の日付けをよく覚えているんです。カメラマンYは三島由紀夫が好きだったから興奮していて、僕がやったストリーキングのことなんかどうでもいいみたいになっていたからガッカリしたけど、死を賭けたパフォーマンスに比べれば、僕がやったことはバカみたいなもんです。
 でも、ストリーキングをやったあと、自分が抜け殻みたいになって、そのあとすぐクインビーを辞めたんです。
 その頃は、祐天寺のアパートに引っ越してまして。引っ越したのは作画会に勤めていた頃だったんだけど、その理由は「お兄さん」がストーカーになってYを待ち伏せしたりしてたのと、勤め先が駒込で遠かったことと、Yと一緒に住みたかったからです。引っ越し費用はYが全部出してくれて、晴れて2人で同棲することになったわけ。
 クインビーを辞めたあと、何もすることはなかったんだけど、電話だけは引いたんです。クインビーのときの同僚に、上野のタウン誌を作らないかって言われていて、自分は広告を集めるから僕に取材やデザインを頼みたいって言うんで、その連絡を待っていたんだけど、電話は1回もかかってこなかったですね。
 アパートの1階が双眼鏡のケースを作る町工場になっていて、Yはそこで働いてました。アパートの隣が大家の家で、その町工場は大家さんが経営していて、大家さんの家の2階の物干台で出来上がった双眼鏡のケースを干していたんだけど、アパートの窓を開けるとYがそこでケースを並べている。なんだか自分が情けなくなって、窓を少しだけ開けてYが仕事をしているのを見ながら泣いてました。
 働かないといけないと思って新聞の募集欄を見ていたら、あったんです「自宅で出来て高収入」の広告が。代々木にあるその会社に行ってみると、来ているのは中年の女性ばかりで、場違いな感じがして恥ずかしかったですね。ガラスに絵の下描きを写して、裏から金箔を貼って、クラシックカーやヒョータンやらの飾り物を作る仕事で、そのやり方を聞いて材料を貰って帰ってきたんです。
 仕上がった製品を代々木の会社に持って行くと、1枚2000円ぐらいで買い取ってくれるんだけど、慣れないうちはうまく出来なくて、ちょっとでも出来が悪いと買い取ってくれない。全然高収入にはならないわけ。
 その頃、Yのお父さんが新潟から出てきてアパートに泊まったんです。お父さんに会うのはその時が初めてでね。僕がガラスに絵を描いているのを見て、「それはいくらになるのか?」とか聞くわけ。恥ずかしくて。どうしようもない男とくっ付いたと思ってたんじゃないですか?
 金箔っていうのは1枚何十銭かで、すごく安いんです。1枚だと穴だらけだから何枚も貼って、その上からペンキを塗る。ガラスの表から見ると、まるで金のように見えるんです。この技術を使って、質屋とか不動産屋のドアのガラスに金文字を描いたら儲かるんじゃないかと思って、祐天寺界隈を回って営業したんです。そうしたら質屋の仕事が取れて。「1文字いくらだ?」って聞くから「3000円です」って言うと「高い」って言われました。「でも金ですから」と言うと「金ならしようがないな」ということで、5文字描いて1万5000円もらったのかな。「これは儲かる」って思いましたね。でも仕事が取れたのはその質屋1軒だけ。
 そんなとき、電話がかかってきたんです。クインビーの同僚からではなく、上野クインビーでマネージャーをしていた人からで、いま池袋のピンクサロンで店長をしているけど、看板描いてくれないかって。
(聞き書き:松田義人)


末井さん近況
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会社の日常。今日は『らくらく台湾一周旅行』の著者・松田義人君がチラシの発送に来た。年末台湾に行こうと思っている方はぜひこの本を参考にしてください。



イベント情報

■12月24日(クリスマス・イブ)原宿・リトルモア地下にて南伸坊さん、上杉清文さん、河井克夫さんと「渡辺和博展・ホーケー文明のあけぼの」のトークショーがあります。展覧会は12月7日〜25日。(20:00〜)

■12月25日(クリスマス)Asagaya/Loft Aにて西原理恵子さんとのトークショー「愛のドロドロ 金のボロボロ」があります。ペーソスも出演。(19:30〜)



末井昭(編集者)
1948年・岡山県生まれ。白夜書房・編集局長。キャバレーの看板描き、デザイナー、イラストレーターなどを経て編集者に。現在はサックスに夢中。主な著書に「素敵なダイナマイトスキャンダル」「絶対毎日スエイ日記」などがある。



vol.12 フェラチオ・ポスター はコチラから。


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