ロックンロールニュース


レギュラーコラム ZONONEM

[2003年11月28日]
熟爛漫 vol.6

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 先日、TR-2の放送で、「早漏と遅漏」のテーマについての、「射精というゴールが見えない遅漏の孤独の方が、とりあえず自己完結することは出来る早漏よりも悩みは深い」というリリーさんの卓見を聞いて、少なからず衝撃を受けた。長年、早漏者として生きて来て、(同じ挿入問題で悩む)遅漏者の内面について、まったく思いを馳せることがなかったというのは、想像の貧しさというか、アイデアの不足というか、とにかく、あまりにも迂闊であった。

 常々、遅漏派に対しては、羨まれる立場をことさら悩んで見せるエリート集団のようにイメージし、敵対心すら抱いていたのだが、それは甚だしい見当違いであり、実は、早漏について何か考える際にはたえず意識し、参照すべきパートナーとも呼べる存在だったのかもしれない。

 つまり、「何が早漏者をして早漏ならしめているか」という問題は「何が遅漏者をして遅漏ならしめているか」を考えれば、より明確に事が運ぶような気がするのである。

 例えば、早漏/遅漏ともに、その悩みは、‘自身の射精を適度な範囲でコントロール出来ないことによって生じる’とはとりあえずは言えるが、そこで生じた悩みの質はまったく違う様相を呈している。リリーさんの言うように、遅漏者の、どこまで長く続けても終わる見込みのない、自己との葛藤のような苦しさに対して、早漏者の場合にあるのは、性交相手に対する気まずさ・バツの悪さ、そしてそこで感じる自分のふがいなさである。いまだその渦中にあり、射精にたどり着く果てしない先まで、苦悩をより深く掘り下げていくような、絶対的・実存的な遅漏苦に対して、早漏苦は、その性質からして、相対的・解釈的である。

 もしも、性交相手が三こすり半(私の場合、ひと突きとちょっと)でも絶頂に達し、互いの満足度(挿入についての評価)にいささかのギャップもなければ、早漏苦は生じるはずがない。ましてや、性交相手の満足度など初めから考慮に入れさえしなければ、なおさらである(実際、イスラム圏の、割礼風習の根強く残る地域では、女性の快楽などありえず、それゆえ否定的な意味での早漏という概念はないらしい。むしろ、短時間の間に最大限の快楽を得るということで、積極的に評価される)。

 しかし、早漏苦をもたらすものが、性交相手との関係、または、その早漏者が属する社会においての解釈に過ぎないと観念的に言い張ったところで、事態はいささかも好転しない。何しろ、まったく悲しいことに、我々を取り巻く状況は、女性の快楽をことさら重視し(まあ、そのこと自体は、尊重してもいいが)、早漏を、煙草・イスラム・インポもろとも、この世から駆除しようとする方向にあることには違いないからだ。

 遅漏者の自己への嘆きは、深まる一方、早漏者の社会への嘆きは、より浅はかになる一方。(つづく)


園田敦史
白い巨塔』で、石坂浩二の奥さん・東夫人役を、伊武雅刀と同じハイテンションで艶じる高畑淳子に熟目。往年の(?)高瀬春奈をしのぐ、蒸し蒸しするような48歳の濃熟ボディであります。