ロックンロールニュース


レギュラーコラム 黒住光

[2003年09月01日]
恋のナイトフィーバー vol.6

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映画を観て「あー最悪。金返せって感じだよ」なんて言う人がよくいる。つまらん映画に腹が立つ気持ちは分かるが、そういう言いぐさは筋違いじゃないかと思う。
 例えばラーメン屋で、不味かったから金を返せと言うかね。私は言わないし、考えもしない。そんな店に入った自分が悪いのだ。「俺もけっこうラーメンは食べ歩いたつもりだったが、店構えで見抜けなかったか。まだまだ修行が足りんな」と自分を恥じる。そういうものじゃないのか。
 そりゃあラーメンにゴキブリが入ってたりしたら、いくら大人しい私だってキレる。味の当たりハズレはしょうがないとして、まさかゴキブリはないだろう。そういう信頼の下にラーメン屋の看板を出すことは許されているはずだからである。食品衛生法を持ち出すまでもなく、最低限の常識というものはある。その常識の範囲で……少なくともゴキブリは入ってなくて、麺をよく見れば輪ゴムだったとか、麺は本物だけど汁が墨汁だったなんてこともなくて、「不味いけどラーメンだよな」と判断できるシロモノを出されれば、文句は言えない。不味くてもあきらめるしかない。そういう覚悟で我々はラーメン屋のノレンをくぐるのである。
 映画については、さらに厳しい覚悟をしておかなければならない。なにしろ「映画と呼べるシロモノ」という常識の下限は、かなり低いところに設定されているからだ。エド・ウッドの映画だって、一応は映画だと認められているのである。画面に何かが映っている映像作品であれば、それはもう映画と呼ぶしかないのだろう。つまらないけど話の筋らしきものがあって、しかもヘザー・グラハムの乳でも映っていたりしたなら、すごい名作に出会ったと思わなければならない。映画とはそんなものなのだ。脚本や演出が完璧な映画を観せろなどと言うのは、ラーメン屋でサービスに肩を揉んでほしいと言うくらい贅沢な態度である。
 いや、正確に言うと、ラーメンに喩えるのはよろしくない。ラーメン屋で払う金は「ラーメン代」だが、映画館で払うのは「映画代」ではなく「入場料」である。客は映画を上映する「場」に対して金を払っているのであって、作品の内容に金を払っているわけではないのだ。そうでなければ、巨匠が撮った超大作と新人監督の自主映画モドキの作品を、同じ料金で上映していて商売が成り立つはずがないじゃないか。
 映画館に上映施設として不備があったのなら文句をつければいい。画面がピンボケだったり、音声が出なかったり、椅子がひっくり返ったりしたのであれば、「金を返せ」と劇場にクレームをつければいいだろう。しかし、作品が面白いかどうかまでは劇場が保証するところではない。劇場側が作品の質まで責任を持つなら、映画館に看板は要らない。作品のタイトルを伏せて上映すればいいのだ。客は劇場の名前を信頼して入り、面白い作品をよく上映する劇場は流行る。そういうシステムが成り立つだろう。
 しかし、現行のシステムでは上映作品が示されていて、客が自分で作品を選んで入るのである。映画がつまらなかったら、つまらない映画を選んだ自分が悪いのだ。「金を返せ」と言うのは、そんな基本も分かっていないバカの逆ギレである。


 いや、違う。私はそんな小うるさい理屈をこねたいわけじゃない。もっと単純な話である。男が一度払った金を「返せ」なんて、さぶい言葉を口にするなということだ。そんなに銭が惜しけりゃ家で寝てろと言いたいのだ。
「インチキだから払えねえって言うのかい?」とは、『麻雀放浪記』の名ゼリフの一つである。
 若くて威勢のいいバイニン(プロの博打打ち)ドサ健と、古ダヌキのバイニン出目徳の勝負。出目徳のイカサマ技にしてやられたドサ健は、「ふざけんな! てめぇ、相手を見て技をやれよ」といきり立つ。しかし、出目徳は平然と言い返すのだ。
「上野に健さんっていう勇ましい博打打ちがいると聞いていたが、そいつがそうぬかしたんだな。インチキだから払えねえ、ってな」
 そう言われてはグウの音も出ない。ドサ健は「よぉし! 来い!!」と売られた麻雀の勝負を買う。阿佐田哲也の原作小説にも和田誠の映画にも、そっくりに描かれている場面だ。ここでシビレない奴は男じゃない。
 最近はショッピングモールのシネコンで映画を観るようになったせいか、映画に金を払うことが、まるで大根やキュウリを買うのと同じに扱われている。キズがついてるだの、しなびてるだのと文句をつけ、値段にケチをつけようとする。
 映画に金を払うのはスーパーの買い物じゃない。映画を観に行って、金額に見合った商品を持ち帰れるはずだと信じているのは、バクチ場に迷い込んだダンナ衆と同じだ。甘いのである。そもそも映画は生活必需品じゃないし、「安心と信頼の価格」なんてものは、そこにはない。
 映画はくだらない浪費だ。世界中で今日も多くの人々が飢え死にしたり、テロや戦争の犠牲になっているというのに、絵空事の遊びに何百億円も費やす映画とは、人類の悪の極みだ。ハリウッド大作じゃなくたって、少なくとも何千万円かはかかる。その金で病気の子供を救うワクチンが何本買えるか……って、私もいちいちそんな大げさに考えはしないけどさ。
 考えなくても分かるのは、映画を作る者も観る者も“許されざる者”だということだ。映画とは堕落の快楽であり、後ろめたい気持ちで観るべきものだった。昔の映画館はチンピラがうろつく場末の盛り場にあって、その扉は悪の世界への入り口だったのだ。
「勝負で得る金は、働いて稼ぐ金の2倍素晴らしい」とは、『ハスラー2』のポール・ニューマンのセリフである。ニューマン演じるエディ・フェルソンは、“ファースト・エディ”の名で知られるハスラー(バイニン)だった。たかが玉と棒の遊びにすぎないビリヤードに大金を張るハスラーの世界。かつてそこに身を投じていたエディは、本当の意味での“カネの価値”を知っている。
 誰もが平等で幸福に暮らせる社会なら、カネなんか要らない。悲しいかな人間社会は強い者が弱い者を食い殺す残酷なゲームの場で、金銭はそのゲームチップだ。1作目の『ハスラー』(61年)でバクチ地獄を見た若きエディ・フェルソンは、死ぬほどそれを思い知った。その男の25年後を描いたのが『ハスラー2』だ。原題は“The Color of Money”。カネの色。血の滴るような緋文字のタイトルが画面に出るのを見ただけで、私はシビレた。
 男ならエディやドサ健のように生きたいと思う。食うか食われるかの非情の世界で、一歩も引かずにカッコよく闘いたいと思う。しかし、そうはいかない。大抵はちょっと痛い目に会って尻尾を巻いて逃げ出す。勝負を避けて怪我をしないように生きていく。狼ではなく豚の生き方を選ぶ。大根やキュウリが1円安い店を探して暮らすようになる。
「てめえら家つき飯つきの一生を人生だと思ってんだろ。てめえらにできるのは長生きだけだ。糞タレて我慢して生きてくだけだ」
 ドサ健にそう言われてしまうのが、我ら小市民の人生である。
 あぶく銭に触れると汚れて堕落する。昔のカタギの親はそう教えた。しかし、カタギの子だってたまには堕落したい。ためにならないことにカネを捨てるワルになってみたい。ほんのささやかな金額で、ちょっとだけワルな気分を味わえるのが映画館のはずだった。だからこそ、映画を観た後に「金返せ」なんてシャバいセリフを聞きたくないんだよ。
 1800円をポンと払った後、「あーくだらない金使っちゃった」と笑って帰ればいい。そして明日からまたシコシコ真面目に働いたり、学校に行ったりすればいい。なのに、今日観た映画が1800円に値するかどうかなどと批評する。自分が悪い遊びをしているという自覚がないからだ。そんなケジメのない社会になっちまってるから、カタギの小学生がパンツを売りに行くんだ。


『ハスラー2』が作られた80年代には、すでに町にはバイニンの居場所がなくなっていた。町のプールバーにはTシャツを着た若造がたむろしている。そこでは大きな賭けは行われない。コンベンションセンターか何かで健全なスポーツイベントとしてビリヤードの大会が開かれていて、実はその裏で大金が動いている。カタギとヤクザの境目が見えない世の中になってしまっている。
 エディも中途半端な老いぼれになっていた。ヤミ酒のブローカーと言えばカタギの商売ではないものの、それは勝負に生きているとは言えない。「働いて稼ぐより2倍素晴らしい」世界に戻りたいエディは、プールバーで出会った若造に目をつける。当時売り出し中のトム・クルーズが演じたヴィンセントという若者である。腕は天才的だが、ビリヤードをテレビゲームと同じだと思っているような坊やだった。
 エディはヴィンセントを悪の世界に引き込み、ハスラーに育てようとする。25年前にエディを道具にしたバート(ジョージ・C・スコット)と同じように、自分もヴィンセントのマネージャーとなって、より大きなワルになってやろうとするのだ。エディは飲み込みが悪いヴィンセントに辛抱強く教え、騙し方と勝ち方を覚えさせていく。しかし、何かが違っていた。カッコつけて勝ちたがるヴィンセントの青臭さに自分の若い頃を重ねていたエディだが、2人は何かが決定的に異なっている。
 目先のゲームにとらわれず最後に金を得た者の勝ちなのだという、より大きなゲームのルールの存在はヴィンセントも理解するようになる。しかし、勝つことの意味が彼には分かっていない。弱者を容赦なく殺して生きていく人生の罪深さを、ヴィンセントは最後まで理解できない。カネの色が血の色であることが彼には見えないのだ。


『ハスラー2』のいちばんの名場面は、フォレスト・ウィテカー演じる若いハスラーにエディが騙されるくだりである。久しぶりに自分でビリヤードのキューを握ったエディが、ナメていた相手に完敗する。愚鈍な豚を装って「俺って太りすぎかな?」と決めゼリフを言い残して去るデブのハスラー。まんまとハメられたエディは自分の甘さを呪う。「また次に勝てばいいじゃないか」と軽々しく慰めの言葉をかけるヴィンセントは何も分かっていない。エディがそのゲームで失ったものの大きさを。いや、本当は25年前にすでに自分が誇りを失っていたことに、その時、エディも初めて気づいたのだ。
 ヴィンセントに自分を仮託することはできないと悟ったエディは、自分自身が再びプレイヤーになることを決意する。エディは無心に玉を突く。金のためでも名誉のためでもない。もはや誰かに勝つためですらなかった。勝負の場に立たなければ生きている気がしないという切実な思いにかられる。つまりは自分のためにプレイするという、まるでスポーツマンみたいなクリーンな心境になっている。ヴィンセントを悪の道に引き込もうとしていたエディが、いつの間にか逆に、ただ純粋に玉を突くことに自分を賭けていく。
 60歳を超えた当時のポール・ニューマンが“I'm back!”と宣言するラストシーン。彼は25年前の『ハスラー』のファースト・エディに戻ったわけじゃない。愛した女を死に追いやり、自分だけ無様に生き延びた罪の壁を、25年経ってやっと超えたのだ。25年かかって、やっと一歩だけ成長した男の、単純で深い人生の物語がここにある。スコセッシ的な贖罪のテーマなどと難しく言う必要もないだろう。「よぉし! 来い!!」と言えれば男は大丈夫。結局はそういうことだ。
 生き延びるのは悪いことじゃない。人生は勝ち組と負け組に二分されるものばかりじゃない。そんな気持ちになる映画がたまにあったりするから、映画館に金を捨てに行くことも悪くないのだ。今日観た映画がハズレたからって、どうしたというんだ。よぉし来い! もう一本観てやろーじゃねーか!! 私ならそう言う。


黒住光(ライター)
先日、今さらながら今シーズン開幕戦を行ったヤングジャイアンツ。背番号55ミニラ選手は4打数1安打1打点。私としては絶好調と言っていい結果でありました。