[2003年07月11日]
恋のナイトフィーバー vol.4

自分でもウンザリするぐらい私はありきたりな男である。他人が興味を持たないものに興味を示すようなクリエイティブな人間じゃない。ここで語っている映画にしても、わざわざ今さら褒めなくても評価の高い作品ばかりだ。しかし、そんな平凡な私が大感激しているというのに、世間から総スカンを喰らってしまう映画がたまにある。
例えば『ギャング・オブ・ニューヨーク』だ。半年前の話題作だから誰でも知ってると思うが、観ていない人が多いのじゃないか。そこそこヒットはしたけれど、“巨匠スコセッシが120億円の製作費を投じて!”という振りかぶりぐあいに見合う特大ホームランにはならなかった。渾身の外野フライだ。とにかく観た人の評判が悪い。暴力的な映画だから女ウケは悪かろうとは思ったが、男たちも批判ばかり。「最低の駄作」から「そこそこ面白い」の間に評価が落ち着き、賛否両論にすらならなかった。
世間の皆さんは『ギャング・オブ・ニューヨーク』にいったい何を期待してたんだろうか。ディカプリオとキャメロン・ディアスのラブストーリーが『タイタニック』みたいに燃え上がるのを観たかったのか。たしかにCMはそんなイメージをプッシュしていたが、映画のCMを真に受けるのが悪い。映画の宣伝なんてものは縁日の見世物小屋の看板と同じ。「大イタチ」と書いてあって中に入ってみると大きな板に血が塗ってあるというアレである。ウソと知りつつ騙されるのを楽しむのが興行ってもんよ……って、いつの時代のオヤジだよ。しかし、シネコン世代の若者はこういうことを教えてやらないと本当に何も知らないからな。「宣伝に騙された!」と本気で怒ってちゃバカである。
『タイタニック』の場合は、ディカプリオとケイト・ウィンスレットのラブストーリーに的を絞ったからウケたのである。それは分かっているものの、何だか釈然としない。巨大客船が沈み、人が大勢死に、20世紀初頭という時代を象徴する事件が“船の舳先で手を広げるディカプリオ&ウィンスレット”のイメージでまとめられてしまっていいのだろうか。いや、いいんだけどさ。
『タイタニック』は現代版『風と共に去りぬ』だと言われたりもした。『風と共に去りぬ』なら2回半ぐらい観たことがあるが、スカーレット・オハラの恋愛ドラマは私の脳裏にはまるで残っていない。いちばん印象に残っているのはスカーレットが黒人の召使いにコルセットを締めさせるシーンだ。『風と共に去りぬ』と言えばコルセットである。あとは南北戦争があって、大火事があって、農場を守るのは大変で、だけど「明日は明日の風が吹く」……それだけだ。ほとんど覚えていないわけだが、それでいいのだ。『風と共に去りぬ』をヒロインの恋愛話でまとめてしまっちゃいけないだろう。なんかいろいろあって大変だった19世紀のアメリカ南部を生きたような気がする、という疑似体験をすることが“叙事詩”を観る意味じゃないのか。コルセット絞めるのも“あの時代ってなんか大変”の一部なのである。
『ギャング・オブ・ニューヨーク』について「恋愛ドラマも復讐劇も描き切れていない」「人間描写が浅い」と批評家たちは言う。そんなことはどうでもいいと反論する気はない。そりゃ個々のドラマが描けているに越したことはないと思う。しかし、スコセッシが最も描きたかったのは恋愛でも復讐でもなく“暴力にまみれた19世紀のニューヨーク”なのだよ。個人のドラマの中から時代が立ち上がってくるのが映画として理想であるとしても、ドラマを壊してまで時代の空気が吹き出してくれば、それはそれでいいんじゃないのか。そうせざるを得ないNYの歴史への強烈な執着がスコセッシにはあったのだから。
それに『ギャング・オブ・ニューヨーク』はキャラクターを見ても決してつまらない映画ではない。ダニエル・デイ・ルイスが演じるビル・ザ・ブッチャー(肉屋のビル)は、まさにスコセッシ的な偏執狂キャラである。ダニエル・デイ・ルイスは役者に飽きてイタリアで靴職人の修行をしていたという本人の生き様もオシャレだが、スコセッシに請われて靴屋ダニエルが演じた肉屋ビルの演技は、鬼気迫るなんて形容じゃ追いつかない。映画史どころか人類史上に残るほどの超人的演技なのである。なのに「ディカプリオがブサイクになってて、もーガッカリ」なんて言われたんじゃ、清原が3打席連続ホームラン打った日に「由伸がノーヒットでガッカリ」と言われたような気分だよ。いやホント、だから一回見てくださいよ工藤さん。と『探偵物語』の骨董屋の飯塚(中途半端な映画オタク)になってしまう私だ。
好きな映画が評判悪いと意固地になる私だが、幸いにも『ギャング・オブ・ニューヨーク』絶賛で意見が一致した人が身近に一人だけいる。工藤さんじゃなくて遠藤さんというオヤジだ。この映画が公開された年末年始にかけて、遠藤さんと二人でアメリカ旅行をしたのだが、旅の間も私はしつこく「なんで『ギャング・オブ・ニューヨーク』は評判悪いんですかねえ」と繰り返し、骨董屋の飯塚状態になっていた。
「凄いっすね」
「こんな面白い映画ないよ」
「レオーネですよね」
「マカロニだよな」
最初に試写を観た後に遠藤さんとそう話したのだった。
観る前はコッポラの『ゴッドファーザーPART2』やベルトルッチの『1900年』みたいな映画をスコセッシが狙ったのかと思っていたが、まるで違った。セルジオ・レオーネだ。冒頭の決闘シーン、肩越しに相手を撮ったケレン味バリバリのショットはまさにレオーネ調。同じイタリア系でもコッポラやベルトルッチが貴族的な趣味なのに対して、レオーネはコテコテのストリート系だった。『タクシードライバー』のスコセッシがそちらに近いのは当然だろう。
『荒野の用心棒』でマカロニ・ウエスタンの大ブームを巻き起こしたセルジオ・レオーネは、『続・夕陽のガンマン』辺りから次第に叙事詩的な作風に傾いていった。やたらと尺の長い超大作映画を撮るようになり、生涯で7本しか監督作を遺さなかった。遺作となったのが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』だ(最近やっとDVDが出た)。
スコセッシとレオーネが似ているのは大胆な構図を好む画面作りだけで、作風も人柄もまるで違う(ちなみに、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの監督ピーター・ジャクソンはレオーネの風貌に少し似ている)。レオーネの主人公は寡黙だ。寡黙だけれど万感の想いを込めた表情がどアップで迫り、スローモーションの回想がこれでもかと繰り返され、エンニオ・モリコーネの情感たっぷりの音楽がベタベタに謳い上げる。なんだか少しも褒めてないような書き方だが、このレオーネ節がたまらなく沁みる。泥臭く通俗的なのに、少しも安っぽくならないところが神ワザである。
『ギャング・オブ・ニューヨーク』から連想しやすいレオーネ作品は、文字通りニューヨークのギャングを描いた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』か、あるいは復讐劇なら『ウエスタン』だが、私が思い浮かべたのはむしろ『夕陽のギャングたち』だった。これは殺戮の叙事詩である。20世紀初頭のメキシコを舞台に、アイルランドから流れてきた爆破テロリストと、彼に騙されて革命に荷担していく山賊を描いた映画。マカロニ・ウエスタン的なガンマン映画ではなく戦場ドラマに近い。完全版156分の大叙事詩だけど『タイタニック』よりは短いから見てくださいよ工藤さん。
主演は男度200%のジェームズ・コバーンとロッド・スタイガー(二人とも昨年亡くなった)。荒野に流れる立ち小便をどアップで映したレオーネらしい下品なオープニングに始まり、ダイナマイトと銃弾の嵐の中、腐れ縁のコバーンとスタイガーが熱い友情に結ばれていくという男泣き映画である。71年製作、日本公開72年の映画だが、私が初めて観たのは81年、高校3年の夏休みだ。上京して浅草中映で観た。……この昔話には特にオチがないのでやめとこう。
ま、私を含めて『夕陽のギャングたち』に思い入れるような人間は“男の友情”映画に弱いわけだが、最近見直してみると、主演2人のドラマよりも叙事詩的な部分の方に心を動かされた。バタバタと死んでいく名もない民衆や兵士たち。圧巻は中盤のクライマックスであるサン・ホルヘ橋の大爆破シーンだ。本物の石橋を爆破して撮った壮絶な迫力映像に、モリコーネのオーケストラが高鳴る。大量虐殺シーンにあえて安らかなメロディをかぶせてある(この映画のサントラはモリコーネの最高傑作だと思う)。『地獄の黙示録』のナパーム弾投下シーンと並んで、映画史上最も美しく無常感に満ちた爆破シーンである。ジェームズ・コバーンとロッド・スタイガーの演技も素晴らしいが、夥しい爆煙はそれ以上のものを表現していた。煙だって演技するのだ。映画はテレビドラマのような批評で済むものじゃない。
『夕陽のギャングたち』の冒頭には次の言葉が引用されている。
革命とは、
贅沢な食事でも言葉の遊びでもない。
刺繍の模様でもない。
優雅さと丁寧さを持ってなされるものでもない。
革命とは暴力行為なのだ。
———毛沢東
この字幕は今まで印象に残っておらず、完全版DVDで見て気づいた。私が最初に観た日本公開バージョンではカットされていたのかもしれない。以前買ったアメリカ盤LDでは小便のシーンもろともカットされていた。こんなカッコイイ言葉を外すなんてもったいないが、毛沢東の言葉じゃアメリカ盤に入れられるはずがないか。まあ、当時の安直な左翼的ロマンにも見えるし、今ならテロを美化していると誤解されかねない映画ではある。しかし、暴力を肯定するも否定するもなく、人間の業として描くところに映画の本意はある。ラストの夜空に消えていく煙と、ロッド・スタイガーの途方に暮れた表情にそれは集約されている。きちんと主人公のドラマとしてまとめてくれるので、『ギャング・オブ・ニューヨーク』を嫌うような人にもこれは分かってもらえるだろう。
いや、そんなことを書きたかったわけではなかったな。歳をとって、訳知り顔に物を言うのは上手くなったが、高校生の頃に夢中で映画を観た純情ハートにはすっかり贅肉がついてしまっている。本当は『夕陽のギャングたち』が大好きだと言えばいいだけなのに。レオーネは墓碑銘に「私のものの見方は時にナイーブかもしれないが、グロリオソ通りの少年の目は失わない」という名言を遺しているではないか。
『夕陽のギャングたち』を初めて観てから20年以上が経つ。その間に天安門では戦車の前に人が立ちはだかり、世界貿易センターはサン・ホルヘ橋よりも壮絶な映像とともに崩壊し、世界中で殺戮は繰り返されているが、私にとってはすべて対岸の火事だ。私の人生には大したことは何も起こらなかった。自分の人生が波瀾万丈なら映画なんか観る必要がない。所詮はくだらぬ現実逃避に過ぎないが、何かそれだけじゃないような気がするから映画を観るのだ。映画とは贅沢な食事でも言葉の遊びでもない、値踏みして収集する骨董品でもないのだぞ、飯塚よ。
黒住光(ライター)
テーマが叙事詩なだけにやたらと長くなってしまった。誰も読まないかもしれないがノープロブレム。オマケとしてちょっとしたトリビアを付け加えておくと、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ完全版』DVDでは2カ所でマンコが映る。ただし1個は新生児のものですが。
黒住光
(ライター)
プロフィール
しばらくお休みしておりますが、ある日こっそり復活しますので、よろしく。
黒住光さんへのお便りなどはコチラから。
コラムTOPへ
最近のバックナンバー
- 恋のナイトフィーバー vol.10
- 恋のナイトフィーバー vol.9
- 恋のナイトフィーバー vol.8
- 恋のナイトフィーバー vol.7
- 恋のナイトフィーバー vol.6
- 恋のナイトフィーバー vol.5
- 恋のナイトフィーバー vol.4
- 恋のナイトフィーバー vol.3
































