[2003年06月13日]
恋のナイトフィーバー vol.3

『あの頃ペニー・レインと』という映画をご存じだろうか。名作と呼ぶほど誰もが知ってる映画じゃないが、カルト・ムービーと呼ぶほどマイナーな映画でもない。知らなくても常識を疑われはしないし、知っていても映画通を気取れはしないが、これがなかなかいい映画なのだ。「なかなかいい」なんて芸のないホメ方で申し訳ないが、もって回ったホメ方が必要な映画じゃない。素直に「いい映画」なのである。
監督のキャメロン・クロウはライター出身である。15歳で音楽ライターの仕事を始め、16歳で「ローリングストーン」誌のスタッフになったという神童ぶり。そんな自分の思春期を振り返って撮った自伝的作品が『あの頃ペニー・レインと』であり、この映画で彼は2000年度のアカデミー脚本賞を獲った。
クロウ自身をモデルにした15歳の主人公が「ローリングストーン」誌から依頼を受けて、とあるバンドのツアー同行記を書くことになる。ピュアな15歳の少年の目で見た、ロック界の舞台裏への憧れと失望。ペニー・レインと名乗るグルーピーの女の子への淡く切ない片想い。バンドのギタリストとの年齢差を超えた友情。ダメな先輩へのシンパシー。ちょっとだけ変な家族の愛情。その他モロモロをセンチメンタルな選曲の70年代ロックに乗せて描く。……甘酸っぱい。こうやって書いていても首筋がムズムズしてくるぐらい甘酸っぱい映画である。
首筋が弱いのは私だけじゃないようで、ネット上の映画感想サイトみたいなのを覗いてみても、この映画に思い入れている人はけっこう多い。もちろんヒネクレ者はどこにでもいるわけで、罵詈雑言のたぐいも目にする。たしかに、完璧なマスターピースじゃないだろう。何よりも、マドンナ役のケイト・ハドソン(ゴールディ・ホーンの娘)が美人じゃない。魅力的ではあるが、少なくとも「ミステリアスな陰のある美少女ペニー・レイン」という役どころには適していないように見える(当初、キャメロン・クロウはペニー・レイン役にサラ・ポーリーを予定していた。ユマ・サーマン似の美人女優である)。
まあ、人によって文句のつけどころはいろいろあるとは思うが、中には理解し難い非難もある。「作者はロックを分かってない。セックス、ドラッグ、ロックンロールの世界はこんな甘っちょろいもんじゃないぜ……」的な書き込みをいくつか目にした時には、あきれてしまった。
見る映画を間違えている。ロックの暗黒面を見たければ、ベット・ミドラー主演の『ローズ』でも見ればいい。ジャニス・ジョプリンをモデルにした『ローズ』は、ボロボロのギリギリで苦闘して壊れていく「ロックな生き様」の見本だ。ジャニス・ジョプリンやジム・モリスンやシド・ヴィシャスみたいな、破滅型の人間こそがロック・ヒーローだと信奉する気持ちは分かるが、『あの頃ペニー・レインと』というスウィートな邦題を見た時点で、そういう映画じゃないというのが分からんかったのかね?
常識的な判断力がある観客なら、見ればすぐに分かるだろう。『あの頃ペニー・レインと』はロック・ヒーローの悲劇ではなくて、ロック・ファンを描いたコメディだ。主人公は頭がいいけど冴えない優等生タイプの男の子。彼をロックのコンサート会場に送り届けた母親は「ドラッグをやっちゃダメよ!」と息子に声をかける。それを聞いた周りのイケてるオネーチャンたちは失笑するが、少年は恥ずかしそうな顔をしながらも黙って素直にうなずく。「うっせーよ、ババア!」と怒鳴り返すような不良少年じゃない。いや、そもそも不良少年なら母親の運転する車に乗ってライブ会場に行ったりしない。
やがて主人公が密着取材することになるバンドだって、けっしてストーンズやドアーズをモデルにしたようなカリスマ・バンドじゃない。そこそこ人気はあるものの、セールス的にも音楽的にも今ひとつ抜けきれないバンドだ(バンドの花形ギタリスト役にはブラッド・ピットがキャスティングされていたらしいが、最終的に役を得たのはビリー・クラダップ。『もののけ姫』英語版でアシタカの声をやっていた役者である。だからまあ、松田洋治が率いるバンドだと思ってもいいわけだ)。
これは普通の若者たちの物語なのである。ロックが好きだからといって、15で不良と呼ばれてナイフみたいにトガッてた若者ばかりなわけはない。ロック界の舞台裏だろうが、学校の体育館の裏だろうが、大して変わりがあるはずはない。向かい側の教室から片想いの彼女を眺めてるような、普通に鈍くさい青春の光景が大半を占めているに違いないのだ。エキセントリックなヒーローの物語では脇役にしかなれない普通の人たちの、ありきたりで甘っちょろい人生にも、胸を打つ瞬間はある。キャメロン・クロウにはそれをすくい上げる力があるから、彼の映画は愛されているのである。
主人公を演じるパトリック・フュジットが初めて舞台裏からステージを見た時の、目映いライトに照らされた「よい子」の目の輝きが美しい。傷ついて帰宅して、また「よい子」の生活に戻った時の、何も変わらないようでいて何かが変わってしまった眼差しが深い。これは普通の子が普通に成長する青春映画だ。ケイト・ハドソンがクールな美少女じゃないことだって、結局はペニー・レインも平凡で甘っちょろいお嬢ちゃんだったんだから、ということで許せてしまう。むしろ彼女が演じたおかげで映画の温かみが増してよかったのだと、最後には思う。
映画の中でキーワードになっているセリフがある。フィリップ・シーモア・ホフマン演じるロック評論家が、主人公へのアドバイスとして語る「正直に、そして手厳しく書け」という言葉だ。
多くの人は、このセリフの「手厳しく」の部分が重要だと考える。日本の雑誌の映画評や音楽評は無批判な“チョーチン記事”ばかりだ、という声が多い。
私はそうは思わない。以前、ある雑誌でアメリカの映画評を翻訳して紹介するという仕事をやっていたことがある。アメリカの映画評は辛辣な批判ばかりだった。それを読んでいるうちに、何でもホメて書いてある日本の映画評と、何でもケナして書いてあるアメリカの映画評は変わらないじゃないかと思った。どちらも大勢に従って無難に書いてるだけだ。
しかし、ホメてある日本の映画評からも、ケナしているアメリカの映画評からも、じっくりと読めば書き手のホンネが伝わってくることがある。ものすごく陳腐な言い方になるけれども、書き手が真摯に書いた文章には行間に真実が滲んでいる。本当だ。少なくとも私の実感だ。フィリップ・シーモア・ホフマンが日本の評論家だったとしたら、「正直に、そしてお手柔らかに書け」と言ったに違いない。大事なのは「正直に」書くことだ。
『あの頃ペニー・レインと』に対して、「ロックを分かってない」なんて書き込みをするような人は、自分に正直に書いただろうか。この映画をつまらないと思ったことは事実なんだろうし、つまらなかった理由を「作者がロックを分かってない」からだと決めつけたのも、感じたことをそのまま書き殴っただけなんだろう。しかし、正直に書くということと、何も考えずに書くこととは違う。正直に書くためには、自分の胸に問い直してみなければならない。自分がなぜこの映画を嫌っているのかということを。好きじゃない映画のことなんか放っておけばいいのに、なぜわざわざ口汚くののしろうとするのかということを。
「甘酸っぱい青春映画なんて大嫌いだ! 青春は暗くて狂った季節なんだ。青春が甘酸っぱいなんて、青春を過ぎた大人の言う嘘だ。そうだよ、俺は大人になりたくないんだよ! いつまでも俺だけが不幸を背負ってる、俺だけが世界の真理を知ってると思っていたい子供なんだよ!」
自分に正直になれば、例えばそんな答えが見つかったんじゃないのか。
幸いなことに、私は『あの頃ペニー・レインと』を甘酸っぱい気持ちで見ることができるくらいには大人であるようだ。
最後に、正直な告白をしておこう。私は若い頃に物書きになりたいと思ったことは一度もない。好きでライターになったわけじゃないのだが、実は15歳の時に「キネマ旬報」に映画評を投稿したことがある。落選だった。
黒住光(ライター)
先日、キャバクラのネーチャンに映画の話をふったら「『8Mile』が見た〜い。エミネム好きなの〜』と言われ、「う〜んオジサンはヒップホップは……」と口ごもってしまった。まったくなあ、ロックの時代は遠くなったよ。実は『8Mile』の監督カーティス・ハンソンにインタビューする仕事が急に舞い込んで、『8Mile』を見てないもんだから断った後だった。ああ、見てりゃあキャバ嬢にイバレたのか……。
黒住光
(ライター)
プロフィール
しばらくお休みしておりますが、ある日こっそり復活しますので、よろしく。
黒住光さんへのお便りなどはコチラから。
コラムTOPへ
最近のバックナンバー
- 恋のナイトフィーバー vol.10
- 恋のナイトフィーバー vol.9
- 恋のナイトフィーバー vol.8
- 恋のナイトフィーバー vol.7
- 恋のナイトフィーバー vol.6
- 恋のナイトフィーバー vol.5
- 恋のナイトフィーバー vol.4
- 恋のナイトフィーバー vol.3
































