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リリー・フランキー

[2003年05月23日]
シナモン日記 vol.1

 
えび月なす日 曇り
神田神保町に行くと、時間がいくらあっても足らない。

書店、古書店、楽器屋にスポーツ用品店。DVDソフト、エロ本。ポスターやテレカ、ゲームソフトに萬年筆。
ことによってはどこにでもある100円ショップまでも物色するものだから、いつも、買い物と気持ちが完結する前に、辺りはどんどんと暗くなり、店がパタパタ閉まってしまう。
店が閉まった後は「あー、あのエロビデオ買っとけばよかったなぁ」と、買いそびれたものが、なぜか輝いて思える。明日また来て買えばいいじゃないか、という事じゃない。なんだか「さよなら」な気がするのだ。
 別れた人が思い出の中で眩しくなったり、「もう逢えない」と感じて胸が苦しくなるような感情に近いのか、とにかく、人の気持ちをどん欲にする町だ、あそこは。
だから、神保町での食事もゆっくり取ることがない。次の本屋に行くことを考えると、ビールでも飲みながらという、精神的な余裕がない。シャッターの閉まった後の喪失感を何度も感じている僕は、空が明るいうちは気ぜわしい。
かといって、ファーストフードで、というのも味気ないものがある。そして、いつも神保町では「いもや」という店に通っている。
早くて、旨くて、安い。神保町の老舗である。「天ぷらのいもや」「天丼のいもや」「とんかつのいもや」この3軒のどこかに行く。おなじ天ぷらでも、「天ぷらのいもや」には天丼はなく、「天丼のいもや」に天ぷら定食はない。とんかつの方も、メニューはとんかつ定食とヒレカツ定食の2種類しかなかったと思う。おなじ系列でどれも小さな店だが、こだわりのある名店だ。
その日は、もう、少し、夕暮れていた。僕とBJはふたりで両手に本やビデオの詰まった袋を持ち、「天丼のいもや」に行った。入り口には白く、大きなのれん。そののれん一杯に筆文字で「天丼」と書いてある。のれんをくぐり、白木の桟のガラス戸を開けると、天ぷらの揚がる小気味いい音と、ごま油の香がしてくる。
コ型のカウンターだけの、こじんまりした店内。ほぼ満席だったが、入り口のすぐ前の席に運良く座ることができた。メニューは「天丼」と「えび天丼」のふたつ。注文をして、白木のカウンター越しから、琥珀色の油の中に入れられてゆく、えびや茄子を見ていた。

旨そうだ。この店に来ると、神保町に来たという気分が高まる。まだこの後も、何軒か古書店を回る予定だ。そして、すぐに揚げたての天丼が目の前に置かれる。この早さもありがたい。僕は割り箸を取り、口の中にアツアツのえびを入れようとした、その時だった。
 僕のすぐ背後にある入り口が、ガラガラと開いて、入ってきた何者かが、半笑いの大声でこう言ったのである。
 「ここ、なに屋?」
思わず、箸が止まった。店中にピーンと緊張感が走った。他のお客さんも、みんな箸が止まっていた。油の弾ける音も一瞬止まったようだった。声の主は僕の背中30cm後ろに立っていたが、恐ろしくて振り向けずにいた。
ここが、なに屋か。神保町といわず、日本の中でも、ここは「なに屋」かわかりやすい店である。壁にあるメニューには天丼。丸見えの厨房の中にいる店の人は、天丼を作っている以外の事を、なにひとつとしてしていない。油のはねる音と、香り。10数人の客の手には全員、天丼が。なにしろ、天丼しかないのである。それよりも、なによりも、今、その人が潜ってきたのれんには、5万ポイントくらいの大きさで、こう書いてあってはずだ。
「天丼」
『ここ、なに屋?』という質問が一番似合わないこの場所で、その問いかけに、すべての人が虚を突かれて固まった。しかし、固まってばかりいられないのが、店の人である。何十年もやっているのである。だが、間違いなく初めての質問だっただろう。
 腰を曲げて、片手に衣のついたえびを持ったまま、店の人は、やっとひねりだしたように返事を返した。
「て、天丼屋です…」

そうだ、そうだ、ここは天丼屋だ!すべての人が心で叫んだ。すると、声の主はまたも半笑いの声色でこう言ったのである。
「ああ、なんだ、天丼かぁ」
 そう言うと、その人は不愉快な空気だけを残して、ガラガラとガラス戸を閉め、店を出て行った。時間の進みが、また元に戻った。みんなは天丼を口に運び出し、店の人は少しだけ苦笑いをして、また、えびを油の中に滑り落とした。
緊張感はほぐれたが、それぞれになんとも微妙な気分は残っていた。お店の人に対して失礼な人だなと思った。
店の中ではなんとなく、今起きたことが口に出しづらく、外を出てすぐ、ぼくは笑いながらBJに言った。「なんだったんだ?あの人?」。すると、BJは言った。
「目が見えないんじゃないですかね。白い杖、持ってましたよ、たぶん」
それを聞いて、さっきとはまた違う冷たさが背中をすぅっと撫でた。
それから帰りの車の中でも、ずっと視覚障害のある人について考えていた。
まず、あの人は「どれくらい見えないんだろうか」ということだ。全盲の人がひとりで町を歩くということはあるのだろうか?もしあの人が全盲だとしたら、なに屋であるかよりも前に、あの店の扉をあけることが可能なのだろうか?のれんを迷わずめくることができるのだろうか?

たとえば、あの人が寿司屋を探していて、あそこが寿司屋だったとしても、そこからどういう不都合があるのだろう。あの人が全盲でなかったとして、町を歩くことにはさほど支障はないにしても、あの人はあれだけわかりやすい「天丼屋」が天丼屋だとはわからなかった。町並みは判断できて、店ののれんや天丼の文字が目に入っても、「天丼」という字が読めないのかもしれない。それは視力の問題ではなく、点字は読めても日本語は学習する術がなかったのかもしれない。町を歩いても、そこに並ぶ商店が何の店かわからない世界。それはいったいどんな世界なんだろう。
物語の中ではよく、ひとつに障害が出ると他の感覚が冴えてそれを補うといった話しが出てくる。あの店の雰囲気、天ぷらの揚がる音、ごま油の香ばしい匂い、映画の主人公なら誰にも聞かず気づかれずに、なに屋だかわかるのだろうが、現実はそうではないのかもしれない。
感覚の鋭い視覚障害者もいるだろうが、当然、それに鈍い人もいるだろう。下らないドラマなどで知的障害者が描かれる時、そこにはいつも彼等が、純粋で邪気もない「聖人」のように映し出されるが、そんなことはあるわけがない。障害があっても、没個性になるのではない。性格のいい障害者もいれば、悪い人もいる。腹をたてることもあれば、性欲もある。
人間を人間として描かず、勝手に「聖人」に祭り上げて気持ちよくなっているような人々こそ、障害のある「知能」だと思う。
 僕だけがあの店の中で、あの人に背中を向けて座っていた。他の人はすぐに白い杖に気づいたのかもしれない。あの人が失礼な言い方でものを聞いたけど、目の見えない人なら仕方がないと、みんなは思ったのだろうか。確かに、はかりしれないほどに不便なことはあると思うけど、すべての視覚障害者があの人のように、少し失礼な言い方になるのではないと思う。たまたま、あの人がそういう尋ね方をしてしまう性格だったのだ。あの人が「見えなかった」僕は、ただ、単純にその言い方を聞いて、嫌だなと思った。
障害を持つ人を僕らのような健常者が見る時、その障害というフィルター越しに、すべての人を同じように見てしまうこと、それが一番の差別である。その障害の先にある、その人の個性を見なければいけない。
 あの人の見えているもの、あの人の見えないもの、色々考えてみた。どれだけ想像してみても、障害を持つ人の現実的な苦痛を理解することは出来ないのだけれど、僕たちは、僕たちが思っている以上に、視覚障害者の体験する世界を知らないのだなと思った。
あの人は、なに屋さんに行きたかったのだろうか?
神保町に売っている物の、ほとんどが無用であろうあの人に神保町で遭遇して、あの人の見ている世界のことを、僕も日頃から少しづつでも考えていかないとなぁ、と思った。